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服部 直彰(はっとり なおあき、1899年(明治32年)9月〔『新編日本の歴代知事』953頁。〕 - 1949年(昭和24年)10月17日〔『読売新聞』1950年2月16日朝刊、2面の訃報より。〕)は、日本の内務・警察官僚。官選高知県知事、陸軍司政長官、中国地方副総監。 ==経歴== 熊本県鹿本郡大道村藤井(現山鹿市)出身〔。熊本県立鹿本中学校〔『大東亜戦争BC級戦犯熊本県昭和殉難者銘録』257-261頁。〕、第五高等学校を卒業。1922年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1923年、東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し千葉県属となる〔〔『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』237頁。〕。 以後、大分県警察部勤務、山梨県警察部勤務、大阪府警察部勤務、京都府事務官、鹿児島県書記官・警察部長、警視庁保安部長、同刑事部長、福岡県総務部長、大阪府総務部長などを歴任〔。 1941年1月、高知県知事に就任。戦時体制の整備などに尽力〔。1942年7月7日、陸軍司政長官に発令され〔『官報』第4647号、昭和17年7月8日。〕、同年8月1日、第25軍軍政監部付・タパヌリ州長官に就任し同年12月まで在任。1943年4月、第25軍軍政監部内政部長に就任。1944年4月、西海岸州(州都パダン)長官に転任〔『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』138頁。〕。1945年4月、陸軍省軍務局付となり帰国〔「第102号 昭和20年5月3日 陸軍異動通報」〕。同年6月、中国地方副総監に発令され〔『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』109頁。〕、同年8月、原爆投下により左手首に火傷〔を負いながらも救援活動に尽力。妻マサ〔『人事興信録』第14版 下、ハ59頁。〕は爆死している〔。同年10月、副総監を辞任〔。 その後、故郷に短期間滞在後、上京し再婚したが、司政長官時の戦犯容疑により拘留され裁判を受けた。訴因は「反日活動家を多く検挙、留置して虐待した部下の行為を容認した」というものである。刑期10年の判決を受けて服役中のところ、1949年10月にスマトラ島メダンのランイン収容所で病死した〔〔〔『朝日新聞』(東京本社発行)1950年2月16日朝刊、3面の訃報より。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「服部直彰」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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