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服部 良一(はっとり りょういち、1907年10月1日 - 1993年1月30日)は、日本の作曲家、編曲家。また作詞家として村雨 まさを(むらさめ まさお)の名がある。大阪府大阪市東住吉区(現・平野区)出身。天王寺区出生。 ジャズで音楽感性を磨いた和製ポップス史における重要な音楽家の一人である。 == 来歴 == === 生い立ちから上京まで === 1907年(明治40年)10月1日、服部良一は大阪市天王寺区玉造で出生。土人形師の父久吉と母スエの間に生まれた。 芸事好きの家族の影響で郷土の民謡である江州音頭や河内音頭を子守唄代わりに育つ。 小学生のころから音楽の才能を発揮したが、学校を卒業後は商人になるためと、昼は働き夜は大阪市立実践商業学校に通うという日々を送る。 しかしそんな日々に嫌気のさした良一は姉の勧めで、好きな音楽をやりながら給金がもらえる千日前の出雲屋少年音楽隊に一番の成績で入隊する。しかしその2年後に、第一次大戦後の不景気もあって音楽隊は解散してしまう。 なお、当初はオーボエを担当したが、粗悪な楽器で満足に音が出ず、サックスとフルートに転向してから著しく進歩を見せたと、後に述懐している。 ダブルリードの微妙な調整が必要なオーボエを指導できる人間が当時の関西には存在しなかったのである。 学生時代の同級生に安井郁がいた。 1926年にラジオ放送用に結成された大阪フィルハーモニック・オーケストラに入団。(第2フルートを担当) ここで指揮者を務めていた亡命ウクライナ人の音楽家エマヌエル・メッテルに服部は見いだされ、メッテルから4年にわたって音楽理論・作曲・指揮の指導を受ける。ちなみにこのころ、朝比奈隆もメッテルから指導を受けている。 オーケストラの傍らジャズ喫茶でピアノを弾いていた。 昭和に入ると服部は、レコード会社の仕事をするようになった。 1929年(昭和4年)頃、コッカレコードでサクソフォーンと編曲を担当した。 そして、タイヘイレコードの専属となった。1931年(昭和6年)頃には大阪コロムビアで街頭演歌師出身の作曲家鳥取春陽のジャズ演歌の編曲の仕事をした。 1933年(昭和8年)2月、服部はディック・ミネの助言もあり、上京して菊地博がリーダーを務める人形町のダンスホール「ユニオン」のバンドリーダーにサクソフォン奏者として加わった。 翌1934年(昭和9年)2月、東京進出をはかったニットーレコードの音楽監督に就任した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「服部良一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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