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望月 充(もちづき みつる、1948年10月6日 - )は静岡県富士市出身〔プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、573ページ〕の元プロ野球選手、コーチ、スコアラー。 == 来歴・人物 == 静岡高では1965年、2年生の時に佐藤竹秀投手の控えとして春の甲子園に出場。登板機会はなく、準々決勝で岡山東商に敗れた〔「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年〕。1年上のチームメートに佐藤の他、小田義人、服部敏和がいた。 立教大学へ進学し外野手に転向。東京六大学リーグでは優勝には届かなかったが、1年下のエース横山忠夫を擁し、中心打者としてリーグ通算63試合出場、207打数44安打、打率.213、7本塁打、20打点を記録。卒業後は大昭和製紙に入社する。 1971年には小田義人、阪口正晴とクリーンアップを組み、都市対抗野球に出場。1回戦で今西和男(日本熱学工業から補強)がいた電電近畿に敗れる。しかし秋の産業対抗野球では首位打者となる活躍を見せ、エース加藤初の好投もあって、決勝で熊谷組を降し大昭和製紙3度目の優勝を飾る。同年には社会人ベストナインに選出された。 1971年のドラフト3位で阪神タイガースに入団〔。入団1年目の1972年にはオープン戦で活躍し、新人ながら左翼手、六番打者に定着。後半戦は失速したが92試合に出場、打率.207、7本塁打の成績を挙げた。また、この年にはオールスターにファン投票で選出されている。 その後も外野手の準レギュラーとして活躍するが、1976年に、江夏豊と共に江本孟紀・長谷川勉・池内豊・島野育夫との交換トレードで、南海ホークスに移籍。移籍後は故障もあってあまり出場機会がなく、1977年限りで現役を引退した。 打率は低いが、パンチ力のある打撃で左投手にも強く、左打者の多い阪神外野陣で重宝された。 引退後は、フロントに入り、スコアラーなどを務めていた。阪神時代の同僚田淵幸一が監督だった1990年~1992年(1990年は一軍、1991年~1992年は二軍)はダイエーのコーチも務めた〔『ホークス九州20年史―1989-2008 飛翔!若鷹軍団』P99〕。 その後もダイエーに残り、チームスタッフ・スコアラーと歴任。2000年にはシドニーオリンピック野球日本代表対策のスコアラーとして派遣される。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「望月充」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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