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望月 圭介(もちづき けいすけ、1867年4月1日(慶応3年2月27日) - 1941年(昭和16年)1月1日)は日本の政党政治家。広島県出身。 == 生涯 == 1867年(慶応3年)瀬戸内海、竹原市沖に浮かぶ大崎上島東野村の生まれ。生家は廻船問屋で、13歳の時上京して、攻玉社、共立学校、明治英学校に学んだが17歳で帰郷し、家業を手伝う傍ら自由党に近づき1898年(明治31年)初当選、以来衆議院議員に13回連続当選した。父・望月東之助、兄・望月俊吉、弟・望月乙也は広島県議会議員であり、広島県下では代議士肥田琢司や広島県議肥田広司を筆頭とする肥田派との激しい勢力争いが繰り広げられていた。 明治30年代は日清戦争の勝利で急速に成長した日本の資本主義が、帝国主義へ移って行く時期で、藩閥政府と政党との提携がはじまり、政党の力が次第に強まって行く時代であった。 衆議院議員となった望月は自由党(その後憲政党)に属したが、同党が1900年(明治33年)、伊藤博文総裁で立憲政友会となってこれに属しのち1918年(大正7年)、米騒動で倒れた寺内内閣のあとをうけ、原敬の日本初の本格的政党内閣(原内閣)が誕生すると幹事長に就任。のちの政治活動の基盤を作った。その後総務などで同党の重鎮として活躍、1927年(昭和2年)田中義一内閣で逓信大臣、翌年には内務大臣に転じた。大臣就任中治安維持法の改正を行い、それまで最高刑が十年であったものを改正により死刑をも課す事が出来るようにした。官僚から猛反対を受けたがこれを断行、官僚独善を強く訴え人々の支持を得た。 その後、政友会にあって、官僚出身の鈴木喜三郎総裁を中心とする主流への反感を強め、1934年(昭和9年)政友会の反対を押し切って岡田内閣の内閣審議会に入ったため長年尽くしてきた政友会から除名され、他の政友会脱退者と昭和会を結成。翌1935年(昭和10年)岡田内閣で再び逓信大臣に就任。1939年(昭和14年)、政友会が分裂すると昭和会のうち山崎達之輔らの政友会出身者とともに中島知久平率いる政友会革新同盟(革新派、中島派とも呼ばれる)に復党。1940年(昭和15年)、米内内閣内閣参議に就任、同年政友会は大政翼賛会に合流。望月は太平洋戦争勃発年の1941年(昭和16年)1月、急性肝炎のため〔服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)28頁〕没した。 人情大臣として敬慕されたが一面、息子が忠海町長だったため郷里に近い大久野島に毒ガス工場を誘致した史実もある。 同郷の池田勇人の生家・池田家は望月の支援者であり、また宮澤喜一の父・宮澤裕は望月の秘書官を務めるなどの関係があった。自身は総理大臣になれなかったが、門下から二人の総理を出したことになる。 現在、大崎上島の生家は保存改修し、「海と島の歴史資料館」として一般公開されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「望月圭介」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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