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望月 小太郎(もちづき こたろう、1866年1月1日(慶応元年11月15日) - 1927年(昭和2年)5月19日)は、日本の政治家、弁護士、衆議院議員(7期)、ジャーナリスト。号は鶯渓。従五位旭日中綬章。 == 略歴 == 甲斐国巨摩郡身延村(山梨県南巨摩郡身延町身延元町)に生まれる〔小太郎自身が自らの出自を語ったものに「望月小太郎の談話」『山梨日日新聞』明治30年12月1日(『山梨県史』資料編14近現代1政治行政Ⅰ - 356所載)がある。〕。父は善右衛門で小太郎は三男、母はもん。生家は貧しく、身延学校(身延小学校)を卒業後は朝から晩まで山や畑での仕事を行っていたが、1880年(明治13年)に父が死去し、明治15年に山梨県師範学校を卒業する。郷里で教職を務めていたが、明治20年(1887年)に上京して、政治学を学び、慶應義塾大学部法律科を卒業。元老院議官・中井弘の推挙で、山県有朋の知遇を得てロンドン大学へ国費で留学し、法廷弁護士(バリスター)の資格を得て帰国。1896年(明治29年)には伊藤博文に随行して訪露し、ロシア皇帝、英国女王の記念式典に参列する。 小太郎は大隈重信の進歩党に入党していたが(進歩党は明治31年に板垣退助の自由党と合流し憲政党となる)、1898年(明治31年)8月の第6回衆議院議員総選挙では山梨県第三区から出馬し391票を獲得するが、このときは落選している(第6回総選挙において山梨県では憲政党候補が全勝し、一区では斎藤卯八、二区では河口善之助、三区では秋山元蔵が当選している)。その後、慶應義塾の先輩である尾崎行雄の勧めで憲政党から明治33年9月に結成された立憲政友会へ転身し、甲府で結成された山梨県支部設立に際しては設立委員として活動している。『山梨民報』を買収し機関誌とし、地元の煙草栽培業者の支持層を確立すると、1902年(明治35年)3月の第7回衆議院議員総選挙で当選し衆議院議員となる。小太郎は山梨県選出議員のなかで非名望家層出身の異色の政治家として活動し、当選後は尾崎とともに政友会を離れ、憲政党から立候補する。のちに憲政会総務。 大正初年には富士川水力発電事業が発案されるが明治40年の大水害を経た山梨県の富士川流域では反対運動が起こり、小太郎は事業の発起人となった田辺七六らと地域の説得にあたり事業の実現に尽力した。大正9年の第14回衆議院議員総選挙では非政友会派である山梨同志会派の河西豊太郎らと普通選挙実現を唱える。 大正10年(1921年)には中央で政友会が政権から外れ、これにより山梨県議会においても大正12年(1923年)の改選で政友派が過半数を割り、政友派は中立議員の抱き込みを図り同志会派と対立した。小太郎はこの一件において内相に意見書を提出している〔「山梨県臨時見解役員選挙の違法顛末・同県関係県告示」『峡中日報』大正12年11月7・8日、『山梨県報』号外大正12年11日5日『県資』14所載〕。日露戦争・第一次世界大戦後には普通選挙実現を求め県内各地で青年党が組織されるが、峡南でも1923年(大正12年)に小太郎の支持者らが中心となり峡南立憲青年党を結成する。 井上馨の最晩年の私設秘書を務め、1927年(昭和2年)には議員辞職した政友会の若尾璋八、藤田胸太郎の補欠選挙に際して郡内地方を遊説するが、その最中に死去する。墓所の記念碑には、若槻礼次郎の撰文、尾崎行雄の題字、身延山第83世法主の揮毫が刻まれている。 自由通信社社長を務め、また、英文通信社を設立している。極東情勢に関してかなりの情報を持ち、やみくもな対外強硬論では無く、独自の「国民主義」鼓舞して「国権の拡張」につとめた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「望月小太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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