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望月玉泉(もちづき ぎょくせん、天保5年6月14日(1834年7月20日) - 大正2年(1913年)9月16日)は、日本の明治から大正にかけて活躍した四条派の日本画家。本名は重岑。字は主一。通称駿三、玉泉は画号で、別号に玉溪。 == 経歴 == 京都室町竹屋町に生まれる。祖父は望月派の絵師望月玉蟾(玉仙)、父は望月玉川、子の望月玉溪も日本画家、という絵師の家系に生まれる。6歳から祖父に絵の手解きを受け、16歳から父に画法を学び、詩文は巖垣六蔵に習う。弘化2年(1845年)13歳で菊亭家に仕えながら、伊勢国・駿河国などに遊歴、写生を重んじながら円山派と四条派を折衷し、山水・花鳥画で京都画壇に知られるようになる。嘉永5年(1852年)に18歳で家督を継ぐ。望月家は代々宮中の御用を務めており、安政2年(1855年)京都御所造営で襖絵「有虞二妃図」「舞楽図」を描き、ついで明治天皇即位の際「山茶梅(花カ)戯犬の図」と共に「岩藤熊萩野猪図屏風」(東京国立博物館)を献納している。 明治11年(1878年)幸野楳嶺らと京都府画学校設立の義を請願、明治13年(1880年)画学校が設立されると、東宗の副教員として指導にあたる。印刷局、博物局の命により正倉院御物を模写し、明治15年(1882年)内国絵画共進会では絵事功労の褒章を受ける。地元の京都博覧会でも度々受賞、明治21年(1888年)「平安百景会」を主催し、会主として京洛の名勝百景を選んで、多くの画家をまとめ後進の育成に尽力した。明治24年(1891年)普通学校の教材として『玉泉習画帖』3冊を刊行、上京区室町丸太町下ルの画塾で跡見玉枝など多くの弟子を育てた。 明治22年(1889年)のパリ万国博覧会で「富嶽図」を出品し銅賞。明治26年(1893年)のシカゴ・コロンブス万国博覧会では農商務省買い上げの栄誉を受ける。明治29年(1896年)日本絵画協会設立されると、その第一回展に玉枝ら門下生と出品、「宇治川上流紙漉秋景」で一等褒状となる。続いて明治30年(1897年)の第二回絵画共進会にも「孔雀」を出品する。その後日本美術院の設立には関わらず、明治33年(1900年)パリ万国博覧会に出した「雕養雛図」(所在不明、類品無し)は好評を得、明治37年(1904年)4月16日帝室技芸員を拝命する〔『官報』第6236号、明治37年4月18日。〕。晩年は専ら花鳥画に彩管を振るい、大正2年(1913年)丸田町の自宅で80年の生涯を閉じた。 門下に川合玉堂、跡見玉枝など。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「望月玉泉」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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