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朝倉 景総(あさくら かげふさ)は、戦国時代の武将。朝倉氏の一門で家臣。朝倉孝景(英林)の四男。 庶腹の出であったため、兄でありながら常に正妻(桂室永昌)の子である異母弟の教景(孝景の五男)の下座に置かれた。これを恨み、文明16年(1484年)7月12日、相撲場で教景を殺害した。教景を養子としていた叔父の朝倉光玖は激怒し、景総は南条郡の宅良慈眼寺へ逃げ、剃髪して許しを請うたという。 その後、光玖の怒りが解けたのか、一乗谷に出仕するようになり、延徳3年(1491年)の管領細川政元の越後国下向時の見送り役や、明応5年(1496年)の美濃国の船田合戦への派遣軍の大将役などを務めている。また、娘を従弟で敦賀郡司家の朝倉景豊に嫁がせている。しかし、桂室永昌との関係は修復されず、やがて越前国を出奔する。その後、京都に出て細川政元に仕え、名乗りも朝倉弾正忠元景に替える。 文亀3年(1503年)には朝倉景豊・教景(宗滴)らと共謀し、主家である甥・貞景に対する攻撃の計画を企てるが、教景の密告で計画が漏洩、景豊は貞景に本拠の敦賀を攻められ自刃した。近江国から出兵していた景総はこの報を聞き退却し、その後は美濃国・飛騨国を経て加賀国に入った。 加賀で反朝倉の兵を募った景総は、翌永正元年(1504年)8月、加賀一向一揆の協力の元越前坪江に出陣し、貞景に決戦を挑むが敗れ、能登国に逃亡した。 永正2年(1505年)4月4日、能登春木の斎藤館で病死した。法名は大憧宗建。余六、地蔵院という2人の男児がいたようである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「朝倉景総」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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