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右田 弘詮(みぎた ひろあき)は戦国時代の武将。大内氏の重臣。長門諏訪山城主。同じく長門矢田城主とも伝えられる。 == 生涯 == 大内政弘・大内義興の二代にわたって仕えた。初めの主君・政弘からは「弘」の字の授与を受けている。父弘房は同族の右田弘篤の跡を継いでいたが、兄(弘詮の伯父)の弘正が戦死したため、陶家の家督を相続し、寛正6年(1465年)に次男の弘詮に右田家を継がせた。 文明10年(1478年)7月、兄弘護とともに九州に渡り、少弐氏と戦ってこれを滅ぼす。翌年兄に代わって筑前国の守護代となる。 文明14年(1482年)、弘護が28歳の若さで不慮の死を遂げ(大内山口事件)、その子達が幼なかったため、政弘の命により陶氏に戻り兵庫頭を名乗る。弘護の三男の興房が成人するまで番代(当主代行・後見人)を務めて周防及び筑前両国の守護代職を務め、主君・義興の上洛中は留守を守って領内の政務を執り行った。系図類には「暫称陶氏」と書かれ、右田姓に復したとされているが、現存の古文書ではその事実を確認できず、陶姓を通したと考えられている。初め中務大輔を名乗っていたが、永正15年(1518年)には従五位下安房守に任じられた。なお、前年に家督を息子の隆康に譲っていたという。後に(鳳梧真幻)昌瑞と号し、死後の戒名となった。大永3年(1523年)10月24日、筑前国筥﨑において病の為没する。 弘詮の娘は興房の妻となり、その間に生まれた男子が隆房である。弘詮の死から28年後に隆房は主君・大内義隆に対して謀反を起こし、義隆の側近であった弘詮の息子・隆康とその嫡男・隆弘はこれに抵抗するも討死することになる(大寧寺の変)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「右田弘詮」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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