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朝比奈 泰長(あさひな やすなが)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。遠江国宇津山城主。朝比奈時茂(下野守)の次男。別名は氏泰(うじやす)ともいう〔小和田哲男 著 『今川義元のすべて』(新人物往来社刊)所載の朝比奈氏系図によるが、氏泰を泰長の父とする説もある。〕。朝比奈泰能は従弟にあたる。 == 概要 == 永禄年間、浜名湖西岸に位置する遠江宇津山城主〔柴屋軒宗長の『宗長手記』等によれば、同城は大永年間に今川氏家臣・長池親能、あるいは朝比奈泰満(紀伊守)により築城されたと云い、静岡県湖西市入出の宇津山とその山麓の正太寺周辺に城趾が残る。〕として、三河国・遠江国の国境付近を守備し、特に三河国東部八名郡に睨みを効かせていた。 永禄4年(1561年)、松平元康(徳川家康)が今川氏から独立のため、東三河国人領主を調略して蜂起させはじめると、すぐに出陣。三遠国境を越えて同年9月11日(新暦10月6日)に三河国八名郡の国人西郷氏の五本松城を急襲し、城主・西郷正勝および救援に戻った嫡子で月ヶ谷城主の元正を討ち取っている〔この戦いの発生日は『寛政重修諸家譜』第369巻の西郷正勝の項の傍注に『寛永諸家系図伝』が永禄5年とするものを、貞享呈書の御書(判物)及び寛政の呈譜の記述に従ったと記す。〕。しかし、翌永禄5年(1562年)2月(旧暦)には西郷正勝次男の清員率いる徳川軍と、豊川沿岸の八名郡勝山周辺ついで同郡賀茂(いずれも豊橋市内)において再び戦ったが敗れ、清員に西郷氏領を奪還されている〔『寛政重修諸家譜』第369巻の西郷清員の項、および「士林沂洄」巻第26・丁之部1(松平甚太郎衆)所収、西郷氏系図の清員の項による。但し、寛政譜はこれらの合戦を永禄7年(1564年)の発生とする。〕。 同年11月晦日に死去〔→大久保俊昭著 『戦国時代の今川氏 第五集』。〕、宇津山の正太寺に葬られた。 その跡は長男・孫太郎泰充(孫七郎とも)が継いだが、翌永禄6年9月21日(1563年(新暦)10月8日)に弟(泰長の次男)の真次(孫六郎・別名に直次とも)に殺害され、以後、真次が宇津山城主となり紀伊守を称したとされる。真次は徳川氏に恭順した三河国宝飯郡伊奈城主本多忠俊の長女を室としていたため徳川家康への内通説がある。このためか泰長の系統は真次の子孫が江戸時代には幕臣として存続している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「朝比奈泰長」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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