|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 朝 : [あさ, ちょう] (n-adv,n-t) morning ・ 朝鮮 : [ちょうせん] 【名詞】 1. Korea ・ 歴史 : [れきし] 【名詞】 1. history
朝鮮の歴史(ちょうせんのれきし)では、朝鮮および朝鮮半島における歴史を述べる。 == 概説 == 朝鮮半島では、石器などの発見から、数万年前から人が住んでいたと思われるが、現在の朝鮮民族との繋がりは明らかでない。約10万年前の最終氷期から紀元前8000年頃まで東シナ海の大部分は陸地であり、日本列島と陸続きだったが海面上昇により切り離され、紀元前4000年ころまで海進は進んだ。紀元前4000年頃から南部・西部で陸での稲作が始まったとする意見もあるが、証拠となる物は見つかっていない。 朝鮮半島において学術的な検証が可能となる最初の国家は箕子朝鮮、ある程度実情が分かるのは衛氏朝鮮からである。箕子朝鮮が興った明確な時期は解らないが、史記等の記述や考古調査から前12世紀に殷王朝王族の箕子が朝鮮の地を治め始め、後に周王朝が侯国に封じたとする〔考古学的には田の形状や石器などに大きな変化が見られる。〕。衛氏朝鮮は前194年に燕出身の将軍であった衛満が箕子朝鮮の王・箕準を追い出して建国した〔『三国志』〕。衛氏朝鮮は三代衞右渠の時、漢の武帝に滅ぼされ、領地は楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡の漢四郡として400年間直轄支配(南部や東部は間接支配〔 *鳥越憲三郎は、「前漢武帝が元封三年に朝鮮半島の北部を植民地として楽浪・臨屯・玄菟・真番の四郡を設置」と記している()。 *渡辺延志朝日新聞記者は、「楽浪郡は前漢が前108年に設置した植民地()」「中国の前漢が朝鮮半島に置いた植民地・楽浪郡()」「漢字が植民地経営のために、朝鮮半島にまで広がっていた()」と説明している。〕 )されたが、移転や廃止により最後は楽浪郡のみが残った。 4世紀中頃に、満州の鴨緑江付近で興った高句麗が南下して楽浪郡北部を征服、百済も楽浪郡や帯方郡の多くの部分を征服するが、4世紀末までに百済は高句麗により朝鮮半島半島北部から駆逐され、朝鮮半島北部は高句麗によって征服された。 南部は倭と関係の深い百済と新羅が在り共に倭に従属していたが、新羅は7世紀中葉に入って日本が白村江の戦により大陸での影響力を完全に喪失する以前も、度々朝貢を怠るなど叛服常無かった〔『日本書紀』、『宋書』夷蛮列伝、蕭繹『職貢図』〕。 高句麗は4世紀の広開土王の代に、仏教を篤信するとともに、南に領土を拡大し最盛期を迎える。その領土は満州南部から朝鮮半島北部にわたった。なお、高句麗を中国の地方政権とするか、朝鮮の歴史に含めるかについては議論がある(高句麗#歴史論争:高句麗の歴史帰属をめぐる問題)。 百済は371年、漢山城(今のソウル松坡区)を都としていたが、高句麗の攻撃により落城し、扶余に遷都した。また、高句麗とその属国である新羅に対抗するため、大和朝廷に従属し、儒教や仏教を大和朝廷へ伝えた。南端部には倭国の影響下にあって〔 pp.74-78.〕(旧説では「支配下」にあったとする〔『任那興亡史』31P-200P〕)諸小国の雑居する任那加羅があった。 倭国が大陸での支配力を失うと伽耶は特定の国(金官伽耶・高霊伽耶など)が主導する形になったが、倭国への朝貢は途絶えることなく行われていた〔『任那興亡史』189P-213P〕〔 pp.106-107.〕後に諸国は西側が百済に併合され東部も新羅により滅ぼされた。高句麗や百済の支配層は扶余系とみられ、韓系である新羅人とは別系統の言語を話した。 一般的に現在の朝鮮語の祖語は新羅語とされている。このことから言語をもって民族の基準とすると、朝鮮民族を形成していった主流は新羅人であると考えられる。 しかしながら、「陳勝などの蜂起、天下の叛秦、燕・斉・趙の民が数万口で、朝鮮に逃避した。(魏志東夷伝)」「辰韓は馬韓の東において、その耆老の伝世では、古くの亡人が秦を避けるとき、馬韓がその東界の地を彼らに割いたと自言していた。(同前)」などと、秦や六国からの居住者が建国したように、中国人や北方異民族の移住があり、新羅自身も『三国史記』によると4代目の王が倭国北東〔日本列島内に所在すると見る向きが多く、丹波国(→上垣外2003 p.70)、但馬国、肥後国玉名郡などに比定する説がある。また、新羅人の地理的知識の増加に伴って『三国志』に見える西域の小国の名を借りたか西域の楽神の乾達婆信仰に由来する国名に改めたものであり、倭国の東北とする文言も後世の挿入とみる説もある(→井上訳注1980 p.35)。『三国遺事』では龍城国とされる。〕から渡来した王であったり、『三国志東夷伝』によると馬韓(百済の前身)より辰韓(新羅の前身)へ代々王を遣わしていた記述があるなど、朝鮮民族としての意識の形成がいつ頃から生じたものか不明瞭である。新羅の後に興った高麗が高句麗継承を主張し、『三国史記』や『三国遺事』を編纂したことからすると、朝鮮民族としての民族意識の萌芽は高麗の時期に形成された可能性が高い。 7世紀に新羅は唐が高句麗、百済を相次いで滅ぼす戦いに参戦した。その後、新羅は唐を突如裏切って唐の行政府に駐留する部隊を殲滅する反乱を起こすと、朝鮮半島の大部分を統一した〔『旧唐書』東夷列伝新羅の条〕。しかし唐・新羅戦争に敗北して、自らを大唐国新羅郡と名乗った。高句麗の故地にはツングース系の韃靼族とされる〔韓国 渤海を確固たる韓国史にしようと「官民総動員体制」に 『SAPIO』2013年3月号〕大祚栄が渤海を建国した〔が渤海を朝鮮の歴史で扱うか否かについては議論がある(東北工程参照)。10世紀に新羅は地方勢力が自立して後高句麗・後百済を立てて後三国時代を迎えるが、やがて新しく興って後高句麗を滅ぼした高麗が勢力を持ち、新羅を滅ぼして南北にわたる初の統一を成し遂げ、鴨緑江南岸と豆満江付近まで勢力を広げた。 高麗は13世紀にモンゴル帝国(元)の侵攻を受け支配下に入った。元の衰亡とともに失った独立と北方領土を回復したが、14世紀に元が北へ逃げると親明を掲げる女真族ともいわれる〔李成桂が建国した李氏朝鮮(朝鮮王朝)が朝鮮半島を制圧し明に朝貢した。李氏朝鮮の全盛期には、女真族に対する侵略がたびたび行われた。遂には当時半島北部に勢力を持っていた建州女真の大酋李満住が戦死し、建州女真は李朝の支配下に入った。 朝鮮は15世紀4代国王、世宗の時、黄金期を迎える。世宗は訓民正音(ハングル:朝鮮語の文字)の制定、史書の編纂、儒学の振興などのほか、農業の奨励、対外的には倭館の設置、女真との戦争などで領土を拡張した。科学の振興も図られた。蒋英実などを重用し、天文観測機構の設置や、機器(渾天儀、簡儀自)の製作、時間を表す仰釜日晷、自擊漏などを製作するなど、画期的な成果を挙げ、朝鮮の基礎を固めた。 16世紀に豊臣秀吉の侵攻を受け一時国土の大半を征服されるが、明の救援と秀吉の死去により国土を回復した。17世紀には女真族が建てた清の侵攻を受け、衆寡敵せず大清皇帝功徳碑を築くなどの屈辱的な条件で降伏して冊封体制・羈縻支配下に入った。 1776年に22代国王の正祖が即位する。正祖は即位初期には洪国栄などを重用し、当時、弱まり続けていた王権を掌握していく。当時の政権は老論という一派が大きな権力を持っていて王権を上回るほどの実勢を握っていた。正祖は王権を強化するため、政治の改革に着手し、蕩平策を標榜する。蕩平策は基本的に政治の人事がどこの政派にも偏らず、能力ある人物を登用することで、その裏には当時与党で、王権よりも強い政権をもっていた老論をけん制する狙いがあった。蕩平策を通して、疎外されていた政派の者や中人、庶子とその子孫さえ抜擢し登用した。蕩平策は老論をけん制する傍ら、政治的なバランスも崩れておらず、正祖の治世を一貫する政策だった。正祖の時期に、水原華城(世界遺産)の設計や建築に関わった丁若鏞や朴斎家、洪大容、柳得恭などが活躍した。正祖は農業の整備や商業の振興、北学派や実学派を重用し、いわゆる朝鮮の復興期を導いたが、1800年、正祖の死去と共に、改革の成果は消えていった。〔『朝鮮史』武田幸男編184頁〕 19世紀末から欧米列強が来訪、開国を要求、そして日本、清、ロシアが朝鮮半島の権益をめぐって対立、日清戦争後に結ばれた下関条約締結によって長きにわたる冊封体制から離脱し、1897年に大韓帝国(朝鮮から国号を変更)として独立するも、1910年に全土が日本に併合された。1919年に三・一独立運動が起きている。1920年に抗日パルチザンは尼港事件や間島事件により日本領事館を焼き討ちにしている。第二次世界大戦での日本の敗戦に伴い、連合国軍によって朝鮮半島のほぼ中央を走る北緯38度線を境に南北に分割統治され、その後に各々独立、南に韓国、これに反抗する済州島は済州島四・三事件で鎮圧がなされ、北には北朝鮮が建国された。1950年に北側から統一を目指して朝鮮戦争が起こるが、統一はならず現在も南北に2つの国家が並立している。 また李氏朝鮮末期から日本統治期や朝鮮戦争を挟んで軍政期にかけて、様々な理由で清、ロシア(後にソ連)、日本など朝鮮半島外に相当数の人々が移住していき、在外韓国朝鮮社会が形成されていった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「朝鮮の歴史」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|