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朝鮮戦争休戦協定(ちょうせんせんそうきゅうせんきょうてい、朝鮮語名:、英語名:Korean Armistice Agreement、中国語名:)は、1950年から続く朝鮮戦争を終わらせた休戦協定である。国際連合軍(UNC)を代表してアメリカ陸軍の中将と、朝鮮人民軍及び中国人民志願軍(実態は中華人民共和国の事実上の正規軍である中国人民解放軍)を代表して南日大将が署名した。正式名称は、「朝鮮における軍事休戦に関する一方国際連合軍司令部総司令官と他方朝鮮人民軍最高司令官および中国人民志願軍司令員との間の協定」〔原文によれば、朝鮮語名:、英語名:Agreement between the Commander-in-Chief, United Nations Command, on the one hand, and the Supreme Commander of the Korean People's Army and the Commander of the Chinese People's volunteers, on the other hand, concerning a military armistice in Korea、中国語名:。〕。 休戦協定は1953年7月27日に署名され、「最終的な平和解決が成立するまで朝鮮における戦争行為とあらゆる武力行使の完全な停止を保証する」と規定した〔"Korean War Armistice Agreement" , ''FindLaw'', July 27, 1953〕。しかし、「最終的な平和解決」(平和条約)はいまだ成立していない。署名された休戦協定は、南北朝鮮の事実上の新たな国境である軍事境界線を生み出し、戦闘を停止させ、捕虜の本国送還を終了した。軍事境界線は戦前に南北朝鮮を隔てていた北緯38度線からそう遠くないところにある。 == 背景 == 1950年12月半ばまでにアメリカ合衆国は既に朝鮮戦争の終結を見据え、休戦の条件を策定していた。米国が望んだ協定は、戦闘を終結させ、戦闘の再開がないことを保証し、国連軍部隊の安全を守ることであった。アメリカはあらゆる合意を監視する双方から成り立つ軍事休戦委員会が必要だと決定した。双方に「朝鮮において陸海空軍の部隊や兵員を増強する行為をやめ・・・朝鮮に存在する軍備増強を防ぐ」協定が必要であった。アメリカは概ね幅20マイルの非武装地帯を設けることを望んだ。協定はアメリカが一対一で交換すべきと考える捕虜の問題にも触れることになる。休戦のための交渉は1951年5月2日、アメリカの外交官とソ連の国連代表ヤコフ・マリクが接触し、その後アメリカ側はジョージ・F・ケナンを窓口として米ソ間で開始された。 休戦の可能性を秘めた交渉が行われる一方で、大韓民国(韓国)の李承晩大統領は1951年5月後半から6月前半にかけて、いかなる平和会談をも拒否していた。韓国は鴨緑江に向けて進軍するために軍を拡張し完全に南北を統一すべきだと考えていたためである(「北進統一」論)。国連軍は李を支持しなかったが、国連軍の支持がなくとも、李と韓国政府は、鴨緑江の短期戦における停滞を打破すべく、大衆を動員する大規模キャンペーンを開始した。別の韓国当局者は李の希望を支持し、国会もまた満場一致で「独立、統一した国家」に向けて戦いを続けようという決議を採択した。これに対しアメリカは、韓国に米軍を駐留させ朝鮮民主主義人民共和国による武力南進を防ぐための米韓相互防衛条約の締結を交換条件とし、韓国政府を説得し続けた〔崔(2003年)、102ページ。〕。 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の指導者金日成首相もまた、李承晩と同じく完全な南北統一を求めていた(「赤化統一」論)。しかし、戦線が膠着し、人的物的損失相当数に上るにつれて、休戦交渉へと傾斜していった〔トルクノフ(2001年)、229-230ページ。〕。休戦協議開始時には、これを支持するまでに時間が掛かり、1951年6月27日になってそのスローガンを「敵を海に追い落とせ」から「敵を38度線に追い払え」に変更した。 中華人民共和国は1950年10月25日、毛沢東主席の主導により彭徳懐が指揮する中国人民志願軍を参戦させていた。同年12月16日、中国の外交官はアメリカにおける記者会見で、外国軍の撤退、アメリカ軍の台湾からの撤退、中国の国連加盟、の3つを要求している。これが当時の中国の休戦条件とみられたが、アメリカ側には受け入れ難いものであった〔神谷(1990年)、136-137ページ。〕。しかし、1951年4月の志願軍による春季攻勢が頓挫し、6月には戦線が膠着したことで、中国もまた交渉へと傾いた。 中国と北朝鮮を後方支援し、戦争を指導するソビエト連邦のヨシフ・スターリン首相兼書記長は、休戦に関心が無く、消極的であった。スターリンは戦争継続こそが共産側に有利であり、中国が近代戦を学ぶことが出来、また第三次世界大戦を引き延ばすことに利用できると考えていた〔下斗米(2004年)、82ページ。〕。1951年6月10日、中国東北地方の責任者高崗と金日成が揃ってモスクワに飛び、6月13日のスターリンとの会談で説得したことにより、ようやく休戦協議に同意を与えた〔トルクノフ(2001年)、230-234ページ。〕。休戦協議の責任は毛沢東に委ねられ〔トルクノフ(2001年)、247ページ。〕、最重要問題に関してはクレムリンの忠告を仰ぐこととした〔トルクノフ(2001年)、264ページ。〕。 1951年6月23日、ソ連の国連代表マリクはラジオ演説において休戦協議を提唱し、これが大きなきっかけとなった〔神谷(1990年)、160-161ページ。〕。その1週間後、マシュー・リッジウェイ国連軍総司令官が金日成と彭徳懐に休戦交渉を提案し、共産側がこれを受諾したことで、交渉開始への段取りは急テンポで進んだ〔神谷(1990年)、161ページ。〕。韓国は依然として休戦に反対していたが、協議には代表を送った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「朝鮮戦争休戦協定」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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