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朝鮮聘礼使淀城着来図(ちょうせんへいれいしよどじょうちゃくらいず)は延享度(1748年)の朝鮮通信使の船団が淀に着岸し、淀城下を行進する様子を描いた縦138.0cm、横139.9cmの彩色図。淀藩の饗応役を務めた渡辺善右衛門守業の筆になり、同人の記した『朝鮮人来聘記』の付図にあたる。 == 概要 == 朝鮮通信使を描いた絵画史料であるが、原本は昭和初期から2004年に京都大学で再発見されるまで所在不明となっており〔読売新聞2004年5月4日大阪朝刊28面〕、長らく複製〔淀温古会 複製〕が研究者に知られる程度にとどまり、同じく朝鮮通信使を描いたものであっても江戸図屏風(国立歴史民族博物館蔵)や今井町本を始めとする洛中洛外図屏風などの屏風絵のように広く一般に認知されたものではなかった。 この図を所蔵していた京都大学の藤井譲治教授(日本史学)は、この着来図について『日本の子どもと遊んだり、鶏を一緒に追いかける朝鮮人の姿が活き活きと描写され、日本の民衆と交流していた様子がわかる』と解説している〔読売新聞2004年5月4日大阪朝刊28面〕が、右掲の部分拡大図では数人が地面に倒れており、棒を持って通信使に討ちかかっている人物も見える。 また、本図には船団に先駆けて川底の砂をさらいながら進む浚渫船や、船団の接岸のために人夫達が提灯の明かりの下で徹夜の浚渫作業を行う様が描かれている〔本図について「浚渫船が五隻、河底の砂をさらいながら進む。(中略)また延べ四万人の助郷によってさかのぼってきた船団の接岸のために、千五百人の人夫が高張提灯三千張の明かりの下で徹夜の浚渫作業をしている様を描いている。」 『朝鮮通信使往来』(辛基秀/ 労働経済社)〕が、それらの浚渫や綱引人足などの労役、また川沿いに連ねた夜間の篝火の費用は流域農村の負担とされ、朝鮮通信使の来朝は沿道農民に多大な負担を強いるものでもあった。〔『図説 朝鮮通信使の旅』(明石書店)より「淀川をさかのぼった朝鮮通信使」節(中島三佳 執筆)〕 なお、大阪から淀川を遡ってきた朝鮮通信使一行は、この淀からは陸路となり、京都を経て、東海道を江戸へと向かう。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「朝鮮聘礼使淀城着来図」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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