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木下 俊敦(きのした としあつ、享和2年2月28日(1802年3月31日)- 明治19年(1886年)10月12日)は、豊後日出藩の第13代藩主。 第11代藩主・木下俊懋の四男。母は側室の歌と言われている。正室は朽木倫綱の娘。継室は酒井忠進の娘。子に木下俊方(次男、14代藩主)、毛利元純(四男、長門清末藩8代藩主)、木下俊程(五男、15代藩主)、木下俊愿(七男、16代藩主)、娘(柳生俊順正室)、峯子(仙石政固正室)、娘(伊東祐帰正室)ほか。官位は従五位下、大和守、左衛門佐。幼名は銀之助、主計。 文化12年(1815年)12月9日、先代藩主で兄の俊良の死去により、その養嗣子となって跡を継いだ。この頃になると藩財政が窮乏化していたため、天保3年(1832年)から帆足万里を登用して藩政改革を行なったが失敗し、天保6年(1835年)から関勝之を登用して藩政改革を行なった。弘化4年(1847年)8月16日、病気を理由に次男・俊方に家督を譲って隠居した。 以後、廃藩まで3代続いた藩主はいずれも俊敦の子であるが、その全ての死後も俊敦は存命であり、明治3年7月18日に明治天皇に拝謁し、明治19年(1886年)10月12日に85歳で死去した。法号は秀真豊臣俊敦命。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「木下俊敦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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