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木下 利房(きのした としふさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将、大名。備中足守藩第2代藩主〔兄勝俊を、同時ではなく、先んじる足守藩主と数えると第3代目にあたる。〕。官途は従五位下宮内少輔。初名は勝義。諱は惟俊とする史料もある〔。 == 略歴 == 天正元年(1573年)、木下家定の次男として若狭国で生まれた。家定は豊臣秀吉の正室高台院(北政所、おね)の兄で、杉原定利の子。木下姓を称するが、秀吉と血のつながりはない。歌人木下長嘯子として知られる勝俊は異母兄であり〔『寛政重修諸家譜』『尾張群書系図部集』〕、雲照院(杉原家次の娘)を生みの母とする同母弟は延俊、小早川秀秋(秀俊)の2人がいる。 豊臣秀吉に仕えて、文禄・慶長の役では肥前名護屋城に駐屯。文禄3年(1594年)、勝俊に小浜城6万2千石が与えられた時に、利房にも隣接する高浜城2万石が与えられ、慶長元年(1596年)にはそれが3万石に加増された。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属し、大聖寺城攻略戦に援兵を出した責任を問われて、死刑に処せられるべきところを高台院の所縁により改易で許され、所領を没収された。勝俊は東軍に属したが、伏見城の戦いで卑怯な振る舞いをしたことから除封され、兄弟は父家定を頼って備中足守に落ち延びた。 しかし慶長13年(1608年)に父が没すると、遺領2万5,000石を巡って兄弟で争い、翌年9月に分割相続するように幕府から指示されたが、これを守らなかったため、徳川家康の裁定によって遺領はすべて没収とされた。 大坂の陣では、徳川方に組して冬の陣に参加。『譜牒余録』によると夏の陣では、自ら豊臣秀頼との交渉に出向こうとした高台院を制止するため、江戸幕府によって護衛の名目で監視役に付けられた、ということが記されている。 こうした実績から、元和元年(1615年)に備中の賀陽郡・上房郡の2郡で2万5,000石の知行を拝領し、足守藩主として復活した。なお、利房の法号の圓徳院は、そのまま高台寺の塔頭の名前に使われている。 寛永14年(1637年)6月21日に没す。享年65。法名は半湖休鷗。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「木下利房」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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