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木下 吉隆(きのした よしたか、生年不詳 - 慶長3年3月20日(1598年4月25日))は、安土桃山時代の武将・大名である。豊臣氏の家臣で、秀吉の側近。字は半介、他の諱として吉俊・吉種も名乗った。書状などでは「木下半介」の名前で登場する。従五位下・大膳大夫。 == 略伝 == 出身、前半生に付いては不明である。木下姓を名乗ってはいるが、諸説あって豊臣秀吉の親族であったかどうか定かでない。 吉隆(半介)は、美濃国安八郡(現在の岐阜県大垣市津村町付近)にあった称名寺の住職の次男であったという説があり、この称名寺は秀吉と深い関わりが指摘される寺で、彼の出世に伴って長浜(長浜市尊勝寺町)の現在の場所に移転した。本能寺の変の際にこの寺の住職・性慶が、おねら秀吉家族を助けた功があった。性慶は称名寺を継いだ兄の子で、半介の甥とあたると伝えられる。 吉隆は、はじめ右筆として秀吉に仕え、天正11年(1583年)頃から秀吉の発給する朱印状の副状の発給をしたり、奏者として活躍したと考えられている。秀吉が発したたくさんの書状に、木下半介の連署が残っている。 文禄の役に際には馬廻衆の一員として、1500人の兵を率いて名護屋城に控えた。文禄2年(1593年)、大友吉統の改易に伴い、その旧領豊後国の一部2万5千石を与えられた上、従五位下大膳大夫に任ぜられ、諸侯に列せられた。文禄4年(1595年)には更に1万石を加増される。 同年8月に豊臣秀次が失脚すると、秀次の軟禁と監視役を命ぜられ、更に高野山への秀次の護送役を務めるが、高野山に着いた後に吉隆自身も秀次の謀反の一味であったとされて、突如改易。島津義弘に預けられ薩摩国坊津に流刑された。 慶長3年(1598年)、流刑先にて自殺した。秀吉の命をうけた島津義久によって殺されたとも言う〔「三国名勝図会」参照〕。 秀次の側近でなくその処罰に関わっていた吉隆が秀次謀反に関わっていたとは考えにくいことから、豊臣政権内の権力争いに巻き込まれた可能性も高いとされる〔「三国名勝図会」では「石田三成の為に讒せられ(失脚)」とある。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「木下吉隆」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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