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木下広次 : ミニ英和和英辞書
木下広次[きのした ひろじ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [き]
 【名詞】 1. tree 2. wood 3. timber 
: [した, もと]
 (adv) under (esp. influence or guidance)
: [つぎ]
  1. (n,adj-no) (1) next 2. following 3. subsequent 4. (2) stage 5. station 

木下広次 : ウィキペディア日本語版
木下広次[きのした ひろじ]

木下廣次(きのした ひろじ、1851年2月25日嘉永4年1月25日) - 1910年(明治43年)8月22日)は、明治時代の教育行政家(文部官僚)・教育者。
京都大学(当時の名称は京都帝国大学)の初代(官選)総長学長を務めたことで知られる。
== 経歴 ==
;青年時代
肥後国飽田郡坪井(現在の熊本県熊本市)に熊本藩木下犀潭の四男として生まれる。1870年(明治3年)、熊本藩貢進生として友人2人とともに大学南校に入学、1872年明法寮(のちの司法省法学校)に転入学、ボアソナードのもとでフランス法学を学んだ。4年制の同校を卒業(法学校第一期生)しないまま、1875年には留仏しパリ大学法科に入学、1879年11月に卒業し法律学士の学位を得た。さらに法学博士の学位を受けたという。7年間の研学後、1882年に帰国。文部省御用掛および東京大学法学部講師となり、翌1883年教授に就任した。
;一高校長・文部官僚として
1889年5月、帝国大学(東京大学を改称)法科大学教授と兼任のまま第一高等中学校(のち第一高等学校に改称し現在の東京大学教養学部の前身となった)の校長に就任した(奏任官三等)。森有礼文相にもとめられて、前年の1888年8月に、法科大学教授と兼任のまま教学の実権を持つ同校の教頭に就任している。1893年6月まで校長在任、1890年には学生自治を認め自治寮を開設した。翌1891年1月に内村鑑三不敬事件がおこっている。同年12月22日に貴族院議員に勅選され〔『官報』第2546号、明治24年12月23日。〕、1893年6月には井上毅文相のもとで文部省専門学務局長に就任しさまざまな高等教育改革を進めた。
;初代京大総長として
1897年の京都帝国大学発足にともない、木下は専門学務局長を兼任のまま同年6月28日、初代総長に就任〔『官報』第4196号、明治30年6月29日。〕(8月2日には専門学務局長を退任〔『官報』第4226号、明治30年8月3日。〕)、ドイツ流の大学システムを採用し京都大学のいわゆる「自由の学風」の基礎を作ったとされる。京都帝国大学寄宿舎(吉田寮の前身)を設置し、舎生に管理と運営(自治)をさせた。また京都帝大の初代の事務局長であった中川小十郎による京都法政学校立命館大学の前身)の設立(1900年)にも協力を惜しまなかった〔木下広次の胸像はかつて立命館大学「中川会館」総長室に飾ってあったが、現在は立命館大学図書館貴重書庫に保存されている。胸像の銘板には「予立命館學園ヲ創設セントスルニ際シ、先ツ之ヲ京都帝國大學総長木下先生ニ諮ル、先生ハ大ニ之ヲ賛成セラレ、京都帝國大學ト立命館トハ相提携シテ互ニソノ使命ヲ達成スベキコトヲ約セラル、故岡村君ノ嗣博君フル所ノ木下先生ノ銅像ヲ本學ニ寄贈ス、之ヲ請ケテ茲ニ存置シ以テ永久二學園記念ノ一トナス。昭和十年十一月二十三日、立命館総長中川小十郎識」と記載されている(出典:『立命館関係「人物史」稿(戦前編)』(著・松本皎)「立命館百年史紀要 第3号」(187頁-188頁))。〕〔中川小十郎から京都法政学校設立について相談を受けた木下は、京都法政学校は京都帝国大学と「同心一体たるべきことを根本条件とすべき」と意見し、のちに京都法政学校を母体にして設立された「財団法人立命館」の「寄付行為」には、財団解散時には所有財産の全てが京都帝国大学に寄付されると明記された:「本財團解散スルニ至リタルトキハ、理事ハ協議員會ノ決議ヲ經タル後、主務官庁ノ許可ヲ得テ其財産ヲ京都帝國大學ニ寄付スルモノトス」(出典:「立命館学報」第一号、大正3年2月) 〕。1907年7月1日、京大総長を依願退官〔『官報』第7201号、明治40年7月2日。〕、同年12月、名誉教授となった。1908年7月1日、錦鶏間祗候に任じられた〔『官報』第7504号、明治41年7月2日。〕。
墓所は京都市左京区金戒光明寺黒谷墓地にある。
木下旧蔵の文書は京都大学の大学文書館に寄託され、2004年(平成16年)9月より「木下広次関係資料」として公開されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「木下広次」の詳細全文を読む




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