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木下 延由(きのした のぶよし、慶長19年11月9日(1614年11月29日) - 万治元年7月6日(1658年7月25日))は、江戸時代の交代寄合。日出藩初代藩主木下延俊の四男。八蔵、縫殿助。幕府には延次と届けられている。異母兄に日出藩2代藩主木下俊治。室は大久保忠常養女(里見忠義の娘)。継室は小浜嘉隆の娘。子に木下延知、江坂延明。 寛永19年(1642年)5月9日、父の遺領のうち速見郡立石5,000石を分知された(実際に許可されたのは寛文4年(1664年))。また、この分封より兄弟仲は悪くなり、藩士も含め一切交流をしなかった。徳川家光に拝謁し旗本交代寄合となる。正保3年(1646年)に初めて領地に入る。万治元年(1658年)、参勤交代の途中、45歳で急逝した。法名、江岸殿月渕良照居士。泉岳寺に葬られる。家は没後子の延知が継いだ。 == 延由における謎 == *実は豊臣国松だったとの説がある。 *寛政重修諸家譜によると実際の年齢と異なって4歳年上に記載されている。万治元年(1658年)7月6日、49歳で没するとある。また、延由なのになぜ延次とされたか。 *父の延俊は、1万石を分封すると家臣の長澤市之亟に遺言したが、彼の機転により5,000石とされた。これは1万石の分封では本藩が立ち行かなくなることを案じてである。ここで3万石のうち、1万石を分知するということは常識では考えられず、豊臣国松だとすれば考えられる。 *分知が秘密裏に行われ、実際に許可されたのは寛文4年(1664年)だった。 位牌には明石全登、内記と同じ家紋が記されてある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「木下延由」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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