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木下透(きのした とおる、1959年8月31日-)は、和歌山県出身のプロゴルファー、元プロ野球選手(投手)、右投げ右打ち。野球選手時代は181cm、77kg〔朝日新聞東京本社版1978年3月28日付朝刊27面〕、現在は181cm、88kg〔一般社団法人 日本ゴルフツアー機構 〕。 == 来歴 == 1977年、和歌山県立田辺高等学校の3年の時、同校のエースとして第59回全国高等学校野球選手権大会の和歌山県予選に参加。決勝で同年春の第49回選抜高等学校野球大会を制した和歌山県立箕島高等学校と対戦する。この時、箕島のエース・東裕司は、初戦から連続無失点を記録していたが、大会直前に箕島高校のある有田市をコレラ渦が襲い、市内を消毒、不用意な外出を禁じられていたため、箕島は全体的に練習が不足していた。そのような事情もあったが、木下は箕島打線を9回まで零封、東もまた田辺を9回まで零封し連続無失点を42とした。しかし延長に入り10回表、3塁に走者を置いた田辺は東の暴投で均衡を破り、さらに1点を追加、木下がその裏も得点を許さず勝利した。木下に10回を5安打9三振に抑えられ、春夏連覇の夢が消えた箕島監督・尾藤公は「田辺の木下投手は完璧な投球をした。立派だった」と述べた〔朝日新聞東京本社版1977年7月27日付朝刊15面〕。ただこの年は、奈良県と和歌山県の両県で1代表とする紀和大会があった最後の年で、奈良県を制した智弁学園高等学校と、代表の座を賭けて紀和大会に挑むことになった。智弁学園の山口哲治を攻め、1回表に1点を先制する。だが味方の4失策が響き逆転され、2回以降山口を打てず1-4で敗退し、甲子園出場はならなかった。木下は、同年秋のプロ野球ドラフト会議で読売ジャイアンツから2位指名を受け、翌年から入団することになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「木下透」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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