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木曽義昌 : ミニ英和和英辞書
木曽義昌[きそ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [き]
 【名詞】 1. tree 2. wood 3. timber 
: [ぎ]
 【名詞】 1. justice 2. righteousness 3. morality 4. honour 5. honor 

木曽義昌 ( リダイレクト:木曾義昌 ) : ウィキペディア日本語版
木曾義昌[きそ よしまさ]

木曾 義昌(きそ よしまさ、天文9年(1540年) - 没年は諸説あり、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将信濃国木曾谷の領主木曾氏の第19代当主。幼名は宗太郎。左馬頭・伊予守。木曾義康の長子。弟に上松義豊。正室は武田信玄の娘・真竜院(真理姫)。子に千太郎、義利義春義通、娘(毛利高政正室)などがいる。
== 経歴 ==
天文9年(1540年)、 木曾義康の嫡子として誕生する。当初は小笠原氏村上氏らと共に甲斐の武田信玄の信濃侵攻に対抗するが、弘治元年(1555年)に更なる侵攻を受けて武田家に降伏した。木曾氏は断絶した源義仲の嫡流に連なる名族を自称しているが、そのような内容の系図が南北朝時代に作成されたのではないかと指摘されている〔『木曾福島町史 上巻』77-79頁〕。(ただし直系の先祖は藤原北家秀郷流を称している)、隣接する美濃飛騨との国境地帯を押さえていたため、計略家の信玄は義昌に3女(一説に4女か5女とも)の真理姫を娶らせ、武田家の親族衆として木曽谷を安堵した。しかし実際には主だった家臣や親族を甲府に人質として置き、木曽の治世はすべて武田家監視の元であって、甲斐への属国化を余儀なくされた。これにより木曾谷は、武田家の美濃や飛騨への侵攻における最前線基地化された。
信玄の死後、高天神城の戦いに敗北して凋落を見せはじめた武田家の行く末に不安を抱くと共に、義兄の武田勝頼による新府城造営の賦役増大と重税に不満を募らせた義昌は、天正9年8月26日、織田信忠から武田攻めの準備に関する書を送られ〔『木曾福島町史』134頁〕。天正10年(1582年)、遠山友忠を仲介役として織田信長と盟約を結んで勝頼に対し反旗を翻し、甲州征伐のきっかけを作った。勝頼は武田信豊を将とする討伐軍を木曽谷に向けて派遣するが、義昌は地の利を得た戦術と織田信忠の援軍を得て鳥居峠にてこれを撃退する。しかし、武田軍が新府城を出発する前の2月2日、人質として送られていた70歳の母、13歳の嫡男・千太郎、17歳の長女・岩姫が新府城にて処刑された。
武田家滅亡後は、戦功として安曇筑摩二郡(安筑10万石)を新たに加増され、深志城(後の松本城)に城代を置いて松本・安曇地方経営の拠点とした。しかし僅か3ヶ月後に本能寺の変が勃発すると、信濃国内も新たな支配権を巡って混乱し、義昌は北信濃の所領を放棄して美濃へと逃げる森長可の命を狙ったが、企みに気付いた長可に木曽福島城に押し入られ、逆に子の岩松丸(後の木曾義利)の身柄を拘束されてしまう。
岩松丸を人質に取られたことで義昌はやむなく遠山友忠など長可をよく思っていなかった将達に森軍に手出しをしないように依頼して回り、むしろ長可の撤退を助ける役目を負わされた。また、変後の信濃の混乱を好機と見た深志の旧領主・小笠原氏の旧臣が越後国上杉景勝の後援を受けて前信濃守護・小笠原長時の弟である洞雪斎を擁立し、木曾氏は深志城を奪われ、本領木曽へ撤退するに至った。
武田家の遺領を巡り景勝と徳川家康北条氏直の三者が争うと(天正壬午の乱)、初めは氏直に従っていたが、甲州黒駒合戦での後北条軍の敗北と、織田信孝の意向を仰ぎ〔平山優『天正壬午の乱 本能寺の変と東国戦国史』(学研、2011年)〕家康に寝返り、他の信濃国衆から集めた人質を引き渡し、その代わりに再度安曇・筑摩両郡および木曽谷の安堵を受ける約定を得たが、天正12年(1584年)、家康と羽柴秀吉との対立をうけて義昌は盟約を反故にし、次子・義春を人質として秀吉に恭順するに至った。家康が小笠原長時の子・貞慶の深志城復帰を認めたからとも言われている。このため家康は義昌を攻め妻籠城に戦ったが、義昌が勝利している。天正14年、秀吉と家康の講和により、木曾氏を含めた信濃の諸将は家康の傘下に入り、地方的な部将としての木曾氏の独立性は失われた〔『旭市史 第三巻通史編・近世南部史料編中世編』(1975年)1001頁〕。秀吉の北条攻めには病床におり出陣はできなかった〔『旭市史 第三巻通史編・近世南部史料編中世編』(1975年)1002頁〕。
天正18年(1590年)、家康の関東移封に伴い、家康から下総阿知戸(現在の千葉県旭市網戸)1万石が与えられて木曽谷を退く。領主にとって木曾の土地資源は、今日でも全体の九割五分を占める山林であることから〔所三男「木曾の検地」(『信濃』8巻12号)〕、木曾の山林に着目した秀吉から木曾を没収され阿知戸を与えられたとする説もある『木曾考』〔『旭市史 第一巻通史編・近代史料編』(1980年)53頁〕。天正18年12月、下総国三川村に到着、東園寺に居住し、芦戸地域を整備し、天正19年、芦戸城(阿知戸)に入る〔『旭市史 第一巻通史編・近代史料編』(1980年)54頁〕。城の南には市場を開けるように町作りが計画された〔『旭市史 第一巻通史編・近代史料編』(1980年)54頁〕。天正18年12月12日、千村良重に対して、十日市・へびぞね700石の知行と箕広66貫文の代官職を宛行う〔『旭市史 第一巻通史編・近代史料編』(1980年)54頁〕。没年は、文禄4年(1595年)2月13日、文禄4年(1595年)3月17日、慶長元年(1596年)7月13日の三説がある〔『旭市史 第三巻近世南部編史料編中世編』(1975年)1008-1009頁〕。家督は義利が継承した。
法名は東禅寺殿玉山徹公大居士〔『旭市史 第一巻通史編・近代史料編』(1980年)54頁〕。墓所は千葉県旭市網戸の東漸寺(旧名は東禅寺)にあり、遺体は城の西方椿海水葬され、干潟になってから改めて墳墓をつくった〔『旭市史 第一巻通史編・近代史料編』(1980年)54頁〕。寛文11年(1671年)、椿海は干拓され干潟8万石と称される田園地となった。現在、その一角に木曾義昌公史跡公園が造られ、義昌の銅像がある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「木曾義昌」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kiso Yoshimasa 」があります。




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