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木村和 : ミニ英和和英辞書
木村和[きむら]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [き]
 【名詞】 1. tree 2. wood 3. timber 
: [むら]
 【名詞】 1. village 
: [わ]
 【名詞】 1. (1) sum 2. (2) harmony 3. peace 

木村和 ( リダイレクト:KAN ) : ウィキペディア日本語版
KAN[かん]

KAN(かん、1962年9月24日 - )は、日本シンガーソングライター。本名、木村 和(きむら かん)。福岡県福岡市出身。ジェイピィールームアップフロントグループ)所属。
== 略歴 ==
1962年昭和37年)9月24日福岡県福岡市に2人兄弟の次男として生まれる。
1967年(昭和42年)、東田島カトリック幼稚園に入園。翌年に福岡市天神のヤマハ音楽教室に入室し、ピアノのレッスンを受ける。
1969年(昭和44年)、福岡市立田島小学校(現 笹丘小学校)に入学。福岡市唐人町のピアノ講師・中村順子に師事し、クラシックピアノを習い始める。講師宅で週1回のピアノレッスンに加え、毎週日曜日に田島バプテスト教会に通い賛美歌を歌う日々を過ごす。団地住まいにも拘らず、ピアノを2台設置するなど、両親(特に母親)の音大への進学は期待が高まっていた。4年生のときに福岡市団地対抗少年野球連盟のチームに入団、6年生でレギュラーに昇格、副キャプテンを兼任した。また、学内唯一の長髪、赤いベルボトムジーンズ、オーバーオールを着こなすなど、ファッションリーダーとしても生徒間で注目を集め、福岡の老舗デパート「岩田屋」のランドセルのテレビCM及び広告にモデルとして出演。
1975年(昭和50年)、福岡市立友泉中学校に入学。独学でギターを持ち始め、ビートルズをコピーする。中学2年生の秋に、高校受験を理由にクラシックピアノを辞めるが、3年生の年にビートルズのコピーバンドを結成(バンド名はミートルズ)。この時に録音した音源はまだ残っており、大阪でのFM番組で放送されたこともある。KANとともにこの当時の番組に出演していたトータス松本はその音源を聴いて、中学生レベルとは思えない完成度・熱き思いに大きな衝撃と感銘を受けたという(その場ではKANに告げられずにいたが、10年程経過して再会した時にその時の感想を伝えた)。なお、2010年4月30日のNHKのFM番組(ジャパニーズ・ゴールデンポップス)において「いつか、ちゃんと(その音源を世に)出そうと思っている。」とKAN本人が発言している。
1978年(昭和53年)、福岡県立城南高等学校に入学。水泳部に所属。同級部員から借りたビリー・ジョエルのアルバム『ニューヨーク52番街』に衝撃を受け、ピアノロックに目覚める(KANはこのLPを本来の所有者に返却するのを忘れ、29年間所持していた。後に返却)。
1981年(昭和56年)、法政大学社会学部に入学。ピアノを買うために大学にはほとんど行かず、銀座のレストランや六本木のディスコ「玉椿」でのアルバイトに明け暮れる(そのため2年生の時に留年)。1983年福岡県立城南高等学校水泳部の先輩らが所属していたフュージョン系バンド「アネット」に、“自分のオリジナル曲をやること”を条件に加入
1984年にヤマハ「East West '84」決戦大会で優秀賞、集英社ヤングジャンプ「Sound Contest '84」でヤングジャンプ奨励賞を受賞する。
1986年(昭和61年)にライトリンクスコーポレーション(1988年にアップフロントエージェンシー(現:アップフロントプロモーション)に吸収合併)と契約。同年、大林宣彦監督作品『日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群』の音楽を担当する(大林宣彦とは後に「大連・尾道友港都市博覧会」での上演作品、及びKANのセカンドシングル「BRACKET」のPVでもコンビを組んでいる)。
1987年(昭和62年)4月25日ポリドールよりシングル『テレビの中に』及び同名のアルバムでレコード・デビュー。
1990年平成2年)、アルバム「野球選手が夢だった。」の収録曲「愛は勝つ」が『クイズおもしろTV』エンディング曲に採用(同番組に起用されたことはあまり話題にならずヒットには繋がらなかった)。1991年(平成3年)1月フジテレビ系『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』の第三期エンディングテーマに用いられ、大ヒット。シングルは200万枚を超えるセールスとなり、オリコンチャートイン52週のロングヒットを記録する。
1991年(平成3年)には「愛は勝つ」が第33回日本レコード大賞(ポップス・ロック部門)を受賞。また、第42回NHK紅白歌合戦にも出場した(モーツァルト没後200周年の年であったこともあり、モーツァルトを連想させるかつら&扮装で熱唱)。また同年2月、やまだかつてないWinkに作曲提供した「さよならだけどさよならじゃない」(作詞・山田邦子)もヒット、卒業ソングの定番曲ともなった。
1991年9月6日フジテレビ笑っていいとも!』のテレフォンショッキングに初登場。KANを紹介したのは、前年に『雨にキッスの花束を』『新しい街で』を提供された今井美樹
1996年(平成8年)11月、中国広州の「広東国際広播音楽博覧会」に出演。「愛は勝つ」を北京語中国語で歌唱。
1997年(平成9年)のコンサートツアー「LA TOUR DOMESTICA DEL DECIMO ANNIVERSARIO DAL TREDICI SETTEMBRE PASSANDO IL MIO COMPLEANNO AL OTTO NOVEMBRE」で共演したバイオリニストの早稲田桜子と、1999年4月に結婚。
2002年(平成14年)2月、「フランス人になりたい」の夢に近づくため、住居をフランスパリに移す。また、クラシックピアノを基礎から勉強し直すため、エコール・ノルマル・ドゥ・ミュジーク・ドゥ・パリのピアノ科(ノンプロフェッショネル)第2ディヴィジョンに中途入学。翌年6月に同科第3ディヴィジョンを修了。
2004年(平成16年)7月、帰国。
2005年、初の単身弾き語りツアー「弾き語りばったり#1」を敢行。
2006年(平成18年)2月22日、4年5か月振りのシングル『カレーライス』を発表。同年5月、初の上海ライブを新天地ARKにて行う。同年8月30日に5年振りのアルバム『遥かなるまわり道の向こうで』を発表。
2010年(平成22年)2月10日、シングル『よければ一緒に』を発表し、同年3月10日、アルバム『カンチガイもハナハダしい私の人生』を発表。このアルバムにて、尊敬するアーティストであるASKAとの初コラボレーション作品『予定どおりに偶然に(with ASKA)』を発表。
2010年10月、オリジナルアルバムのうち廃盤となっていた「テレビの中に」から「KREMLINMAN」までの12枚を「THE RESTORATION SERIES」と銘打ち、リマスタリングのうえ再発売した。
:2010年10月1日付で、所属事務所をアップフロントエージェンシーからジェイピールーム 移籍。
2011年(平成23年)11月、ロシア・モスクワでのイベント【J-FEST 2011】Фестиваль японской современной культуры(日本の現代文化フェスティバル)へ出演。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kan (musician) 」があります。




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