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木村 駒子(きむら こまこ、1887年7月29日 - 1980年7月10日)は、大正・昭和期の日本の女優、フェミニスト、神秘主義研究家。霊能者として夫とともに「観自在宗」を作って霊術治療をする一方、婦人団体「新真婦人会」を組織し、浅草新劇の女優にもなった。本名、黒瀬駒(子)。 == 生い立ち == 1887年(明治20年)、熊本市の消火器具〔「木村駒子」石原通子 『女性史研究』第11集「『熊本評論の女たち』1980.12〕を営む家に生まれる(養女とする説も〔東華堂、1915) ">『現代女の解剖』吉野鉄拳禅 著 (東華堂、1915) 〕)。祖母は新内の名手で、母親も芸事に堪能だったことから、4歳から三味線、踊り、芝居を習い〔小林栄子著 (須原啓興社、1916) ">『尼になる迄』 小林栄子著 (須原啓興社、1916) 〕、チンコ芝居(子供歌舞伎)にも出演していた〔。裁縫学校に飽き足らず、漢学塾にも通う一方〔、英語を学ぶため、教会にも通う〔。 電話交換手の職を得るが〔、知人の後援で熊本女学校(現・熊本フェイス学院高等学校)へ進学〔「木村駒子素描 : 熊本女学校時代」藤田富士男 学校法人佐藤栄学園埼玉短期大学紀要 2, 117-124, 1993-03-20〕。当校の校長は東京女学院の矢嶋楫子院長の姉であり、旧来の良妻賢母ではない“新しき女”の生き方を駒子に説いた〔。1906年(明治39年)に卒業。同志社に通う木村秀雄の噂を聞いて憧れ、秀雄が渡米したことを聞くと、アメリカ留学を志してミッションスクールの福岡英和女学校(現・福岡女学院)へ進学〔〔。このとき同性の恋人ができる〔。その後、東京女子師範学校の受験に失敗したため、青山女学院の英文科に進学〔。 帰国した秀雄と交際を始め、妊娠。両親の反対を押し切り、1907年(明治40年)に長男を出産、「生死」と名付ける〔。地元誌の『熊本評論』に演劇論などを投稿する〔。1908年(明治41年)、帝劇女優養成所の第一期生に応募したところ、芸事の経験豊富なことなどから無試験合格の通知を受けるが、夫の反対で断念する〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「木村駒子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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