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木次 文夫(きつぎ ふみお、1937年1月26日 - 1977年5月14日)は、日本のプロ野球選手(一塁手)。 == 来歴 == 長野県出身。松商学園高校では2年からレギュラーとなる。エース堀内庄を擁し、右翼手としての夏の甲子園に出場するが、1回戦で鳥取西に敗退〔『巨人軍 陰のベストナイン』11頁〕。他のチームメートに中村修一郎(日鉱日立-国鉄)がいた。翌の夏の大会にも一塁手として2年連続出場。ここでも1回戦で中京商に敗れるが、中山俊丈投手から先制となる中堅越えの三塁打を放って一躍その名を知られるようになる〔『巨人軍 陰のベストナイン』12頁〕。中京商はこの大会に優勝。 高校卒業に際して、早稲田大学を受験するも試験当日に受験票を忘れてしまい浪人生活を余儀なくされるが、1浪後無事に早大に進学〔『巨人軍 陰のベストナイン』13頁〕。東京六大学リーグでは在学中2度優勝。春季リーグでは主将として、それまで4連覇を続けてきた立大に競り勝ち、3年振りの優勝に貢献した。同年の全日本大学野球選手権大会でも決勝で再試合の末、関学を降し優勝。リーグ通算66試合出場、198打数49安打、打率.247、7本塁打、30打点。ベストナイン1回。通算7本塁打は当時長嶋茂雄の8本塁打に次ぐ歴代2位タイ記録であった。大学同期に近藤昭仁がいる。 プロ入りに際して、巨人・大洋・阪急の間で争奪戦となるが、に巨人に入団。川上哲治の後を継ぐ大型一塁手として期待され、契約金は長嶋茂雄や王貞治より上であったという〔。しかし、木次の入団で危機感を抱いたプロ入り2年目の王貞治が奮起、チームトップの17本塁打を打ち、同年のオールスターゲームに一塁手部門でファン投票選出されるほどの活躍ぶりで、一塁手のレギュラーの座を不動のものとした。同年の木次は先発出場すらなく、打率は1割にも満たずわずか23試合の出場に終わる。翌も28試合の出場に留まり自由契約となる。に国鉄に移籍するが、8打席で6三振と全く打てず同年限りで引退した。 引退後は飲食業・土木建築業・ゴルフ会員権売買・植木リース業などを営んでいたが、1977年5月14日に自宅で亡くなっているのが発見された〔『巨人軍 陰のベストナイン』33頁〕。享年41(満40歳)。脳溢血と見られている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「木次文夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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