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木野 親則(きの ちかのり、生年不詳 - 天文2年(1533年))は、日本の戦国時代の武将。肥後国の守護大名菊池氏の一族で、その重臣。父は木野相直(すけなお、菊池氏第19代当主持朝の子)で、菊池氏第20代当主の菊池為邦は伯父にあたる。官途は対馬守。 == 生涯 == 菊池氏の一族として生まれ、その歴代当主に仕える一方で、菊池氏一門でありながらも近隣の大友氏(大友親治)とも関わりを深め、その一字により親則を名乗った。また、親則の娘は親治に嫁いで、その嫡子大友義長を産んでいる。 この頃の菊池氏は衰退の一途を辿り、当主の交代も激しかった。永正8年(1511年)、第24代当主菊池武経(阿蘇惟長)が実家に戻ると、空白になりかけた菊池氏当主の後継者として、3名の重臣隈部・長野・内古閑(内空閑)氏によって推戴された、菊池氏支流の詫摩氏の武包が家督を継ぐことになったが、これに従うものは家中の一部に過ぎなかった。 親則をはじめとする大友氏の息のかかった家臣らは、大友義長の子、すなわち親則の曾孫にあたる菊法師丸を菊池氏に入嗣させようと画策し、永正17年(1520年)、菊法師丸が元服して大友重治(のち菊池義武)と名乗ると、武包を追放して、重治を隈府城に迎え入れた。 外曽祖父である親則は、菊池義宗(義武と名乗るのは追放後)と名乗るようになった大友重治の家老となったが、重治は酒を嗜み、国事を務めず、家政を顧みなかった。親則は主君の暴戻な振る舞いを正すために厳しく諫言を行ったが、それを疎んだ重治によって手討ちにされて殺害された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「木野親則」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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