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末次 信正(すえつぐ のぶまさ、1880年(明治13年)6月30日〔同年3月2日に米内光政(29期)、6月15日に永野修身(28期)が誕生。米内は中学卒業と同時に兵学校入校である。末次は19歳7月で兵学校を卒業している。同期生で20歳未満で卒業したのは10人に満たない。〕 - 1944年(昭和19年)12月29日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将、第1次近衛内閣の内務大臣。坊の岬沖海戦で戦死した末次信義海軍中佐は長男。 == 生涯 == 旧徳山藩士・末次操九郎の次男として山口県に生まれる。広島一中から海軍兵学校(27期)に進み、114名中50番で卒業した。卒業席次は平凡であったが、日露戦争に出征後、海軍最高学府である海軍大学校甲種学生(7期)を首席で卒業した。 1910年(明治43年)、海軍砲術学校教官となった末次は、艦の中心線上一列に主砲を装備し、一斉射撃の効率を高める独創案を無断で学生に伝授した。上官は黙殺したが、当時世界最高の海軍国であったイギリスが同様の思考で超弩級戦艦「オライオン」を建造したことで、末次の見識が認められた〔『回想の日本海軍』小柳富次「歴代聯合艦隊司令長官の横顔」〕〔『昭和史の軍人たち』「末次信正」〕。 1914年(大正3年)に渡英。従軍武官として戦艦「アガメムノン」や巡洋戦艦「クイーン・メリー」に乗艦して第一次世界大戦の現場に臨み、ユトランド沖海戦についての報告書を作成している。特に戦艦の変容と潜水艦の活用に関心を持ち、在英中に作成した「対米戦略論」では、潜水艇によるパナマ運河及びハワイの閉塞作戦に始まり、西太平洋での迎撃を想定した五段階の漸減戦略を構想している〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「末次信正」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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