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本因坊 元丈(ほんいんぼう げんじょう、1775年〔安永4年〕 - 1832年〔天保3年〕10月28日)は、江戸時代の囲碁棋士で、家元本因坊家の十一世本因坊元丈、本因坊烈元門下、八段準名人。元の名は宮重楽山、法名は日真。安井知得仙知と拮抗した好敵手であり、ともに名人の技量ありと言われながら名人とならなかった。囲碁四哲と称される一人。攻めの強い棋風。 ==経歴== 清水徳川家物頭役宮重八郎左衛門の四男として江戸で生まれる。知得との初対局は、天明8年(1788年)で、この時楽山14歳、知得13歳で、知得先で楽山12目勝ちであった。寛政2年(1790年)に知得と十番碁を打ち、知得先相先で5勝4敗1ジゴ、寛政4年(1792年)以後はほぼ互先となる。寛政6年(1794年)には四段となり、この時の楽山と知得の棋譜を後の関山仙太夫は「両雄は珍物」と褒めた。 本因坊烈元は河野元虎を跡目候補に目していたが、寛政7年(1795年)に元虎は没し、寛政10年(1798年)五段で楽山が跡目となり、元丈と改名。この年の御城碁に初出仕し、七世安井仙知に先番5目勝ちを収める。寛政12年(1800年)六段。文化元年(1804年)七段上手。文化5年(1808年)に烈元病気のために隠居願いを出すが受けられず、12月に死去するが一門はこれを秘し、翌年に家督相続を許されて11世本因坊元丈となる。この後に烈元の死を公表した。文化11年(1814年)知得と同時に八段準名人に昇る。文政2年(1812年)の御城碁での、初出仕の井上安節(井上幻庵因碩)五段との二子局黒1目勝ちの碁は、元丈一生のできばえと呼ばれている。 知得との御城碁では、寛政12年(1800年)の知得初出仕から、文化12年(1815年)まで、2勝2敗1ジゴ。ジゴは元丈白番であった。知得との対戦総数は長らく七十七番と言われていたが、その後に発見された棋譜を加えて80数局と見られている。 元丈の跡目候補には奥貫智策が候補と考えられていたが、智策は文化9年(1812年)に27歳で夭逝したため、戸谷丈和(本因坊丈和)を候補と目すようになる。文政2年(1819年)に丈和を跡目とし、文政10年(1827年)に隠居して、丈和に家督を譲る。その後、丈和の名人就位運動にも特に関わらず、酒を楽しみに余生を送った。墓所は本妙寺で、現在は本因坊秀甫と同じ墓に葬られている。 実子に、丈和の跡を継いだ十三世本因坊丈策、宮重策全六段がいる。長兄作重郎は大御番小笠原近江守の組与力を勤めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「本因坊元丈」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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