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本因坊烈元 : ミニ英和和英辞書
本因坊烈元[ほんいんぼう れつげん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 
本因坊 : [ほんいんぼう]
 【名詞】 1. grand master of the game of go 
: [いん]
 【名詞】 1. cause 2. factor 
: [げん, もと, がん]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 4. (2) former 

本因坊烈元 : ウィキペディア日本語版
本因坊烈元[ほんいんぼう れつげん]
本因坊 烈元(ほんいんぼう れつげん、1750年寛延3年) - 1808年文化5年)12月6日)は江戸時代囲碁棋士、十世本因坊。元の姓は山本、江戸生れ、本因坊察元門下、八段準名人。法名は日実。
==経歴==
幕府御数寄屋方組頭の山本家に生まれる。幼時より察元に学び、察元が碁所に就いた1770年(明和7年)21歳六段の時に察元の跡目とされ、同年御城碁初出仕。1788年(天明8年)に察元が死去し、本因坊家の家督を継いで本因坊烈元となる。
跡目候補として1783年(天明3年)から御城碁にも出仕させていた河野元虎が1796年(寛政7年)に死去し、1798年(寛政10年)に宮重楽山(本因坊元丈)を跡目とする。1802年(享和2年)に、前年の六段昇段にともない元丈の扶持米の下賜を願い出て許される。この願書では元丈の前に扶持を得ている井上春策が跡目から3年で扶持を下されたのと同様に、当時では異例の早さで願い出ている。またこの時、それまでの通例では家元四家の連署の際には跡目は認可順となっていたのを、本因坊家を常に跡目筆頭とすることを、他家を強引に説得して実現させた。これらは、察元が復興した本因坊家の権威、格式を守ろうとする意識の現れと見られている。同年、安井仙角仙知とともに八段準名人に進む。
1807年(文化5年)に病気により、自身の隠居と元丈の家督相続の願書を出したが、これが許可される前の12月6日に死去。井上家安井家林家の協議で烈元の死を秘したままとし、翌年3月に願書を認められ、後に井上春策因碩によって死去を届け出られた。これは烈元が隠居願いにて隠居料も願い出ていたことによるとも言われるが定かでない。
烈元は本因坊家の格式のために察元と同様に出費を惜しまず、このために元丈の代では節約を余儀なくされることになった。他に門下には、船橋源治(林元美)、関山仙太夫伊藤子元などがいる。古写譜で明和7年頃まで沢村姓を名乗っているが事情は不明。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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