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本因坊 秀栄(ほんいんぼう しゅうえい、嘉永5年9月20日(1852年11月1日) - 明治40年(1907年)2月10日)は江戸時代・明治の囲碁棋士、十三世林秀栄、十七世、十九世本因坊、名人。生国は江戸。法名は日達。 本因坊秀和の次男で、本名は土屋平次郎。林家十三世を継ぐが、方円社に対抗するため本因坊家に復帰、五段で十七世を継ぎ、林家を絶家とした。明治後半において名人中の名人と謳われ、その平明な棋風は現代でも高く評価される。2008年囲碁殿堂入り。 ==生涯== ===本因坊就位まで=== 江戸本所相生町の本因坊邸に生まれる。1862年(文久2年)、11歳で十二世林柏栄門入の養子となり、林秀栄と改名。12歳で初段。1864年(元治元年)柏栄死去し、その死を伏せたままで翌1865年に家督願いを出し、1867年(慶応3年)に16歳三段で家督を許されて、林家十三世となる。1868年(明治元年)17歳の時に本因坊、安井家の同意で四段昇段を求めたが、井上松本因碩がこれに反対し、争碁の相手として門人の小林鉄次郎を指名した。秀栄は林家当主として因碩との対戦を求めたが応じなかったため、三家にて秀栄の四段を認め、またかねてから同種の問題を起こしていた因碩には昇段の同意を求めないこととなった。 1869年(明治2年)に本因坊跡目秀悦、中川亀三郎らと研究会「六人会」を発足。1870年伊藤松和七段と十番碁を打ち(秀栄先)、7勝2敗1ジゴ。20歳で五段。翌1872年から24歳まで、本因坊家とは疎遠になっていた村瀬秀甫とともに美濃、尾張、伊勢、京阪を遊歴。1876年、中川亀三郎と十番碁、小林鉄次郎と二十番碁、藤田方策と十番碁を打ち、小林には定先に打ち込む。この頃、秀栄は養母と折り合いが悪く、別居を強いられていた。1877年養母が亡くなると、親戚の者が家名を継ぐこととなり、秀栄は碁家としての林家を存続を担う。 1879年、当時の棋界の第一人者だった村瀬秀甫七段と中川亀三郎六段が中心となり、方円社が囲碁研究会として発会される。これを記念した方円社発会記念対局に、秀栄も安井算英五段などの家元側の棋士とともに参加した。しかしほどなくして、家元の権威を認めない方円社のやり方に、秀栄らは強く反発し方円社を脱会、方円社と村瀬秀甫に対抗するようになった。9月下旬、秀栄は、十六世本因坊秀元、井上因碩らと謀り、方円社の社員となっていた門下の段位を剥奪し、対立は決定的になった。 1884年、林家を廃絶し、本因坊秀元を隠居させて本因坊家に復帰し、十七世本因坊秀栄を名乗る。井上馨、金玉均らの勧めで後藤象二郎に方円社と仲介を依頼、12月21日、村瀬秀甫と秀栄先での十番碁を開始。 1886年、7月30日、方円社と和解して、村瀬秀甫の八段を正式に認め、同時に本因坊を秀甫に譲って、自らは土屋秀栄を名乗る。秀甫は、十八世本因坊となり、即日に五段だった秀栄に七段を贈る。8月6日、秀甫との十番碁は5勝5敗の打ち分けで終わる。しかし直後の10月14日に秀甫が没し、秀栄は中川亀三郎に本因坊位継承のための争碁を申し込むが断られ、再び本因坊家を継いで十九世本因坊となる。これ以後本因坊門と方円社は分離する。この頃、元久留米藩家臣で安井門下三段の生田昌集(旧名金吾、-1891年)による支援を受け、後にその娘満基子を妻としている〔林裕『囲碁風雲録』講談社 1984年〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「本因坊秀栄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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