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本因坊算砂 : ミニ英和和英辞書
本因坊算砂[ほんいんぼう さんさ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 
本因坊 : [ほんいんぼう]
 【名詞】 1. grand master of the game of go 
: [いん]
 【名詞】 1. cause 2. factor 

本因坊算砂 : ウィキペディア日本語版
本因坊算砂[ほんいんぼう さんさ]

本因坊 算砂(ほんいんぼう さんさ、永禄2年(1559年) - 元和9年5月16日1623年6月13日))は、安土桃山時代江戸時代囲碁棋士。生国は京都顕本法華宗寂光寺塔頭本因坊の僧で法名を日海と称し、後に本因坊算砂を名乗り、江戸幕府から俸禄を受けて家元本因坊家の始祖となるとともに、碁打ち将棋指しの最高位、連絡係に任ぜられて家元制度の基礎となった。一世名人。本姓は加納、幼名は與三郎。
== 経歴 ==
舞楽宗家の加納與助の子として生まれる。8歳の時に叔父で寂光寺開山日淵に弟子入りして出家。仏教を修めるとともに、当時の強豪であった仙也に師事して囲碁を習う。天正6年(1578年)、織田信長に「そちはまことの名人なり」と称揚され、これが現在も各方面で常用される「名人」という言葉の起こりとされる〔林元美『爛柯堂棋話』及び『坐隠談叢』の記述だが、証明する資料は一切なく、また師匠の仙也も存命であり弱冠20歳の算砂が「名人」と呼ばれたとは信じがたいとの主張もある。(福井正明著『囲碁古名人全集』の巻末評伝(秋山賢司))。〕〔また、増川宏一は著書『碁』(法政大学出版局)の135ページにおいて「本因坊はけっして最強のものではなかった」とし(利玄対して先で敗れている)、碁・将棋衆の連絡係を命じられたのは、算砂の「政治的な手腕もしくは特別な人脈」ではなかったかと、推測している。〕。
天正10年(1582年)、本能寺の変前夜に信長の御前で利玄(鹿塩利賢もしくは林利玄など諸説あり)と対局をした所、滅多に出来ない三コウが出来、その直後に信長が明智光秀に殺されるという事態が起こった。これ以降「三コウは不吉」とされる。ただしこれは歴史的信憑性に欠けており、後世の創作であるという説が有力となっている〔平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社 2001年〕〔静岡県富士宮市西山本門寺には、本能寺で自害後に持ち出され、算砂の指示により同地に輸送されたとされる信長の首級を埋めた首塚とされる塚が存在するが、史実としての確認はされていない。〕。
天正16年(1588年)に豊臣秀吉御前で、算砂、利玄など数名の碁打衆が召し出されて対局し、これに算砂が勝ち抜いて20石10人扶持を与えられる〔本因坊家のライバルであった林家に残された『家康雑記』に朱印状の写しがあるため、史実の可能性が高いとの意見がある。(福井正明著『囲碁古名人全集』の巻末評伝(秋山賢司))。〕。この時の書状に「碁之法度可申付候」とあるのを「碁所の開始とする説もある(『座隠談叢』)〔増川宏一『碁』(法政大学出版会)では「秀吉に仕えたこと」「初代碁所」とも否定されている。〕。
慶長8年(1603年)、徳川家康江戸に幕府を開くと、家康に招かれて一時江戸に赴いた。慶長13年(1608年)、大橋宗桂と将棋対局(将棋最古の棋譜)〔なお、現在残されている二人の将棋平手戦の対戦棋譜は宗桂の7勝1敗である。勝浦修によると「宗桂は算砂より角1枚分強かった」という(勝浦修著『日本将棋大系1』(筑摩書房)より)。ただし、古作登は算砂の将棋棋譜を再解析、コンピュータ将棋での局面評価結果が互角に近いことや、宗桂の息子の宗古の指導を行っていることから、算砂の将棋の棋力は相当に高かったとしている。本因坊算砂の人物像と囲碁将棋界への技術的功績を再検証する 〕。同年には、日本初の囲碁出版である『本因坊碁経』(詰碁や手筋などを収録)を刊行している。
慶長16年(1611年)には僧侶としての最高位の「法印」に叙せられている。
慶長17年(1612年)には、幕府より算砂を始めとする碁打ち衆、将棋衆の8名に俸禄が与えられ、算砂は、利玄、宗桂とともに50石10人扶持とされた。同年、将棋所を大橋宗桂に譲ったとされる〔これは明治期に刊行された安藤如意『坐隠談叢』の記述だが、この時期には「碁所」「将棋所」という言葉そのものがなく、信じがたいとの意見がある。(増川宏一『碁』及び福井正明著『囲碁古名人全集』の巻末評伝(秋山賢司))〕。
元和9年(1623年)5月16日、後継の算悦の後見を弟子の中村道碩に託して死去した。墓所は京都寂光寺にある。辞世の歌は「碁なりせば 劫(コウ)なと打ちて 生くべきに 死ぬるばかりは 手もなかりけり」。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ともに算砂に対し五子の手合割であったと『坐隠談叢』にある〔林裕(『算悦・算知・道悦 日本囲碁大系2』)。ただし、増川宏一『碁打ち・将棋指しの誕生』(平凡社)では、信長・秀吉時代は、算砂はまだ若年であり、彼らが算砂に師事したとは考えられないとある。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「本因坊算砂」の詳細全文を読む




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