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本城惣右衛門 : ミニ英和和英辞書
本城惣右衛門[ほんじょう そうえもん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 
: [しろ]
 【名詞】 1. castle 
: [みぎ]
 【名詞】 1. (1) right hand side 2. (2) above 3. afore-mentioned 4. foregoing 5. forgoing 
: [もん]
  1. (n,n-suf) (1) gate 2. (2) counter for cannons 

本城惣右衛門 : ウィキペディア日本語版
本城惣右衛門[ほんじょう そうえもん]

本城 惣右衛門(ほんじょう そうえもん)は、戦国時代から江戸時代にかけての武士。名は有介。「本城惣右衛門覚書」(以下、覚書)の筆者として知られる。
== 人物 ==
家系・出自は不明。ただし覚書に「むかしハ山だち(山立ち=山賊)・がんどう(強盗)ばかりにて、くらし申候」と述懐しているので、身分の低い野武士あたりであった事がわかる。生年は、寛永17年(1640年)成立の覚書に自らの年齢を「八十九十までもいき申候」とあり、それを逆算するならば天文後期から永禄年間あたりの生まれと推測できる。
若い頃は所属は明らかではないものの丹波国を転戦しており、17歳の時に氷上郡芦田での合戦で芦田新三郎という巨漢の武将を討ち取って功名を上げ、二村の代官に任じられた。後にこの村々が相次いで織田信長の家臣・明智光秀に造反する事件が起きており、惣右衛門はその対応に追われている。このように丹波平定軍を展開していた織田軍とはたびたび交戦しており、明智秀満隊との戦闘で功名を上げて8石を与えられている。当時は黒井城主・赤井忠家の配下にいたようである。また細工所城主・荒木氏綱とは当初は轡を並べて織田軍に抵抗したのだが、氏綱は先んじて織田方へと降り、荒木軍とも一戦を交えることになっている。赤井氏は天正7年(1579年)に織田軍へ降伏した。
丹波平定後は明智光秀に属したらしく、天正10年(1582年)の本能寺の変では先手として本能寺を攻撃する部隊に組み込まれていた。覚書はその際の記録として重要視されている。この時は丹波衆の野々口豪淵(清親)の配下であった。その後、野々口は羽柴秀吉の配下になったようで、天正11年(1583年)秀吉の弟・秀長を主将に伊勢国亀山城滝川雄利を攻撃した際、これに従軍している。惣右衛門も城攻めに腐心し、恩賞として革胴服を堀尾吉晴より賜っている。天正13年(1585年)の紀州征伐でも引き続き秀長軍に属し、龍神山城付近での戦いで武功を挙げ、褒美としてその戦いで捕虜となっていた子供五名を譜代の家臣として貰い受けた。その際の取り次ぎは桑山貞晴が行ったという。
秀吉没後の慶長3年(1600年)に起きた伏見城の戦いでは、西軍の増田長盛軍に所属して勇戦し、銀10枚と知行100石の恩賞をとった。しかし直後の関ヶ原の戦いで西軍は敗戦した。最後の従軍は大坂の陣であり、藤堂高虎軍に所属していたようである。当時、藤堂家では高虎とその養子である藤堂高吉との間で対立があり指揮系統が一部混乱していたようで、惣右衛門の元には番指物が渡らなかったという。
晩年と思われる寛永17年(1640年)覚書を執筆する。自筆とされるが、自身を三人称で書いている部分が多々あり、代筆の可能性も指摘されている。
親族は、覚書の宛名に記されている本城藤左衛門金左衛門勘之丞がそれにあたると思われるが続柄は不明。また丹波時代の記録にたびたび名前の出る大槻氏も遠戚らしく、従兄弟として大槻助三郎という人物を挙げている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「本城惣右衛門」の詳細全文を読む




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