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本堂氏(ほんどうし)は、中世から近世初頭にかけて出羽国山本郡(現在の仙北郡)〔中世にあっては、現在の雄勝郡・平鹿郡の小野寺氏領を「上浦郡」、戸沢氏領など仙北郡北部を「北浦郡」と呼んだのに対し、本堂氏、六郷氏、金沢氏、久米氏(飯詰氏)など中小領主が割拠した仙北郡南東部は通称として「中郡」と呼ばれていた。なお、当時の「仙北(山北)」は雄勝、平鹿、山本3郡全体を指す広域地名であり、「中郡」は通常「仙北(山北)中郡」のように称された。〕の小領主である。江戸時代には常陸国志築を領する幕府の旗本となり、代々交代寄合に属した。 == 概略 == 本堂氏は清和源氏を称し、源頼朝の末孫を称する。鎌倉時代前半に陸奥国和賀郡に土着し、南北朝時代に出羽国山本郡(現在の仙北郡)に進出した和賀氏の庶流と考えられる氏族である〔。和賀氏は源頼朝の三男源忠朝の子孫と称しているが、忠朝の存在が疑わしいため正確な出自は不明である。 当初、角館を本拠とする戸沢氏と姻戚関係を結んだものの、安東氏や小野寺氏、戸沢氏の諸勢力に組み入れられることなく、山城の元本堂城(美郷町)を本拠とし、義親 - 頼親 - 朝親 - 忠親と続いた。『寛政重修諸家譜』によれば、義親は戸沢氏と戦って鶯野(大仙市)で、頼親も金沢城主(横手市・美郷町)との戦いで、朝親もまた同じく戦死している。 戦国時代後半には一帯を支配する小大名に成長し、元本堂城から本堂城(美郷町)に移ったのは天文年間(1532年 - 1555年)と考えられる〔鈴木登 (1980)〕。1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣、同年9月、上杉景勝の家臣藤田信吉による検地に協力している。同年12月19日、これらにより、本堂忠親は秀吉から元本堂、黒沢などの中郡(現在の仙北郡南東部)11か村、8,983石余の知行地が本領安堵された(『本堂宛秀吉知行朱印状』)〔朱印状によれば、総高1万1,416石余で、うち太閤蔵入地がその21%にあたる2,436石余であった。〕。なお、忠親は秀吉の朝鮮出兵にあたって肥前名護屋におもむき、文禄2年(1593年)の牧使城(晋州)攻撃の派兵が計画された際には秋田実季などとともに名前があがっており、兵25人の軍役が割り当てられている(『浅野家文書』)。 忠親の跡を継いだ本堂茂親は、関ヶ原の戦いで徳川方につき、戦後、常陸志筑8,500石に移封される。子孫は代々、江戸幕府の旗本(交代寄合)として存続した。戊辰戦争時の当主親久は新政府に与し、その功によって1万110石の諸侯に列せられた。1884年(明治17年)、男爵を授けられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「本堂氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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