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本多 嘉一郎(ほんだ かいちろう、1903年 - 1980年)は、日本の映画人、地方政治家。第4代調布市長を1962年7月の初当選以来、4期連続で務めた。 == 来歴・人物 == === 多摩川撮影所 === 1903年(明治36年)に生まれる。 20代のころの本多は、東亜キネマ京都撮影所(等持院撮影所)の撮影部におり、1930年(昭和5年)久保義郎監督、岡田静江主演の無声映画『一度はすべての女に』の撮影技師などを務めた。1931年、東亜キネマの経営不振から同社の業務を代行するために発足した東活映画社に移籍した。京都の映画会社である「東活」が、1932年(昭和7年)、東京地区に撮影所を新設しようとしたときに調査に派遣したのが、本多であった。 本多は、北多摩郡調布町大字布田小島分(旧同郡布田小島分村、現在の東京都調布市多摩川6-1-1、角川大映撮影所)に白羽の矢を立て、「水澄み、時代劇、現代劇に最適なり」と京都に打電した〔「財団法人調布市文化・コミュニティ振興財団」公式サイトの「映画のまち調布 」の記述を参照。〕。同地は当時京王電気軌道が1927年に建設・オープンしたばかりのレジャーランド「京王閣」、および1916年に開通した「多摩川原駅」(現在の京王多摩川駅)が至近の好立地であった。 しかし間もなく「東活」は解散、本多が育った京都の撮影所は競売に付され、1933年(昭和8年)「東活」を母体に「日本映画」社が設立された。本多は同地に建設された「日本映画多摩川スタジオ」は、1934年の同社倒産にあたり日活が買収して「日活多摩川撮影所」となり、1942年の戦時下の合併で成立した大映の「大映多摩川撮影所」となったが、そのまま同地に勤め続けた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「本多嘉一郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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