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本多氏(ほんだし・ほんだうじ)は、日本の氏族の一つ。本田氏と同じ氏族であり「本多氏」と「本田氏」は同じ氏族の別表記に過ぎなかったが、いつの間にか分別されたという〔『姓氏』(監修:樋口清之/著者:丹羽基二、秋田書店)による。〕。 江戸時代の譜代大名・旗本家となった三河の本多氏が著名である。他に、織田伊勢守家の家臣から外様大名となった本多利久・本多利朝の一族(大和高取藩家)も存在する。 == 概要 == 藤原氏北家兼通流の二条家綱(家満)の後裔と自称した右馬允秀豊が豊後日高郡本多郷を領したことから本多氏と称したことから始まるという。南北朝時代に助定の代に足利尊氏に従い、戦功で尾張横根郡と粟飯原郡の地頭となり、室町幕府の奉行衆も兼ねた後に三河に移住したのが定説とするが、伝承に近いという。 実際の本多氏は、古くから松平氏に仕えた三河の譜代の家系である。安祥七譜代の一つに挙げられている。三河三奉行の一人とされる本多重次(作左衛門)、徳川四天王に数えられる本多忠勝、徳川家康の参謀となった本多正信の3人が有名。宗家については忠勝の家系をこれにあてる説が一般的な通説であるが、正信の家系を宗家とする説もある。 江戸時代、三河本多氏一族の多くが大名・旗本として栄えた。本多氏の大名は13家、旗本は45家あり、他家に例をみない。江戸時代を通して徳川宗家と分家以外に使用できなかった葵紋を、唯一許されていた。本多氏は徳川家から「葵紋」の使用を認めた事項があることで、前述の右馬允秀豊以来、古くから三河に土着した松平家(徳川家)と同じく賀茂神社を司る賀茂氏の系統である。 柳営秘鑑(柳営鑑)の御普代之列には、下記のように記述がある。 御普代之列 一、三河安祥之七御普代、酒井左衛門尉、元来御普代上座、 大久保、本多、元来田ニ作、中興ニ至テ美濃守故有之多ニ改。 阿部、石川、青山、植村、右七家を云 又ハ或ハ酒井、大久保、本多、大須賀、家筋無、榊原、平岩、植村 共イエリ。 「元来田ニ作、中興ニ至テ美濃守故有之多ニ改」 - 本多氏はもともと本田と称したが、中興に至って美濃守の由来により本多に改めたという意味か。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「本多氏」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Honda clan 」があります。 スポンサード リンク
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