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本多 富正(ほんだ とみまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。福井藩家老。越前府中城城主。本多重富の子。冨正とも。 関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601年)に徳川家康の子、結城秀康の越前入府に御附家老として従い、3代にわたって越前松平家当主に仕えた。 == 生い立ち == 一般的に、父・本多重富は徳川家康長男の松平信康付の家臣であったが、織田信長と家康の命による信康の切腹後に、責任を取る形で自刃。以降の富正は叔父・本多重次に養育されたとされている。だが近年、越前府中で重富夫婦の位牌が見つかるなど、富正の越前入国(後述)以降の重富の生存が確認されている。両親の墓所は、のちに領した越前府中の陽願寺に現存する。それらの史料を総合すると、重富は信康の事件以降は一旦蟄居し、弟の重次の家老として仕え、重次の領地で暮らしていたらしい。 家康の子である秀康が豊臣秀吉の養子という形での人質となり、大坂へ送られることになった際、徳川家は重次の嫡男仙千代(後の本多成重)を附属同行させたが、重次は翌年、息子と甥の源四郎(富正)とを交代させた。重次は実子の安否と出世を懸念した(秀康は実父家康に疎まれていた)とも、不遇の兄の子を出仕させその出世を望んだとも解釈できるが、この行動が秀吉の怒りに触れ、重次は家康によって上総国古井戸(小糸)(現在の千葉県君津市)3,000石にて蟄居を命じられた〔別な理由の説あり。本多重次の項目参照〕。こうして富正は秀康に付属され終生勤め抜くことになる。のちには秀康の四男を養子に貰い受けたりもしている(早世)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「本多富正」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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