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本多 庸一(ほんだ よういつ〔本多の妻の姉の孫に当たる作曲家の柴田南雄は、「本多庸一の読みは、ほとんどの人名辞典や伝記で『よういつ』となっているが、わたくしも従兄弟たちも『よういち』以外の呼び方を聞いた記憶はない。本人の孫に当たる人が、親族の一人である外国人のためにローマ字で作製した一家の系統樹でも、その名はYoichiとなっている。本人のローマ字署名で確認する必要があるが、未見である」と述べている(柴田南雄『わが音楽 わが人生』pp.366-367、岩波書店、1995年)。〕〔『青森県百科事典』(東奥日報社、1981年3月)では、『ほんだよういち』としている。〕、1849年1月7日(嘉永元年12月13日) - 1912年(明治45年)3月26日)は、日本のキリスト教伝道者・牧師・教育者・政治家。日本メソヂスト教会の初代監督。青森県弘前市生まれ。新島襄、内村鑑三、新渡戸稲造、本間俊平と並び、明治期日本におけるキリスト教主義教育の先駆者とされる。 == 来歴・人物 == ===弘前藩士時代=== 本多の先祖は、徳川家譜代の本多氏の流れを汲む。 弘前藩士、石高300石の本多八郎左衛門久元(1823年-1896年)と本多トモの長男として1848年(嘉永元年)に弘前城下在府町に生まれる。幼名を徳蔵と言った。祖父、東作久貞は藩の要職を歴任した人物であった。 1858年、10歳より弘前藩の藩校稽古館でとして漢書の素読、儒学を学んだ。1865年(慶応元年)、17歳で手回組士として出仕して、藩校司監〔藩校稽古館の取締役〕になる。本多は陽明学、蘭学、英学、兵法・剣術を学び、特に兵法、剣術の達人として幕末の困難な政局の中でさまざまな活動を行った。 戊辰戦争が始まると、1868年(慶応4年)6月に弘前藩は本多、菊池九郎らを奥羽越列藩同盟に参加するため白石城に派遣する。慶応4年(1868年)7月11日に、京都で留守役を勤めていた西館平馬が近衛家から勤皇派に転ずるようにとの命令書を持って帰国したことにより、藩論が一変して弘前藩が薩長同盟側に付く、弘前藩の重役会議に出席しているときに官軍側につくことが明らかにされる。〔工藤威著『奥羽越列藩同盟の基礎的研究』420-421ページ〕本多、菊池、石郷岡一得、工藤峰次郎、岡兵一らは、弘前藩の裏切りは、列藩同盟に対する信義にもとるとして抗議したが、函館への転属を命じられた。本多、菊池、石郷岡らは、津軽藩主津軽承昭、黒石藩主津軽承叙らの慰留を振り切って、庄内藩からの使者と共に脱藩して、庄内へ行き背信を詫びて切腹しようとしたが、庄内藩士に説得されて止めた。そこで、9月中旬に弘前藩兵の捕虜で部隊を編成して、庄内藩軍に加わり、秋田戦争に従軍する。薩摩藩士西郷従道の指揮する薩摩軍三番小隊と交戦する。庄内藩降伏後、弘前藩に帰藩する。戦後藩はこの彼らの行動を「義挙」として称えて帰国を許した。 1869年箱館戦争では藩命に従い青森湊で参謀になる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「本多庸一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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