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本多 当一郎(ほんだ とういちろう、1934年〔外部リンク『ゴルフ中継事始め異聞』のプロフィールを参照。〕 - )は、日本のアナウンサー。日本テレビ解説委員〔〔『大相撲』1986年7月号のP60-61より、日本テレビ解説委員・『日曜夕刊』キャスターとの紹介入りで、相撲放送に関して自身が相撲アナウンサーであった旨を含む本多のコメントが掲載。〕。日本記者クラブ会員〔。 名前は「本多當一郎」と書く場合もあり〔『週刊読売』1980年5月11日号(読売新聞社発行)P41掲載のTVアナウンサー・キャスター名鑑を参照。〕。 == 来歴・人物 == 大分県出身〔。早稲田大学卒業〔後、1956年に日本テレビへ入社〔〔〔『実況! 熱きことばの伴走者たち』P215より、日本テレビの昭和31年(1956年)の入社アナウンサーリストを参照。〕。同期に赤木孝男・志生野温夫らがいる〔。以来、大相撲、プロレス、ボクシングなどの格闘技を中心としたスポーツ実況中継のアナウンサーとして活躍。入社2年目の1957年には、日本初のゴルフ中継として放送されたカナダカップ中継を担当した〔『実況! 熱きことばの伴走者たち』P215-216より、日本テレビの昭和32年(1957年)当時のアナウンス部メモを参照。P216に担当アナウンサーのリストを明記。〕。1966年には、日本テレビアナウンサー初の海外出張としてアルゼンチンから世界フライ級タイトルマッチ・海老原博幸対アカバロ戦中継の実況を担当した〔『実況! 熱きことばの伴走者たち』P219-220より、日本テレビの昭和41年(1966年)当時のアナウンス部メモを参照。〕。翌1967年には、日本テレビ初の衛星中継としてアメリカ合衆国ヒューストンのアストロドームから世界ヘビー級タイトルマッチ・アリ対ヘレル戦中継の実況を担当した〔『実況! 熱きことばの伴走者たち』P220より、日本テレビの昭和42年(1967年)当時のアナウンス部メモを参照。〕。1982年には、正力杯全日本学生柔道体重別選手権の実況を倉持隆夫とともに担当した〔『実況! 熱きことばの伴走者たち』P226より、日本テレビの昭和57年(1982年)当時のアナウンス部メモを参照。〕。 1970年からはニュースキャスターに転身し、『NNN日曜夕刊』〔〔、『NNNきょうの出来事』(週末版)、『NNNライブオンネットワーク』(土曜日)、『読売新聞あすの朝刊』、系列CS放送の日本テレビケーブルニュース(現:日テレNEWS24)で放送の報道番組〔で活躍した。その間、解説委員〔〔も務めた。 1994年、同局を定年退職〔『実況! 熱きことばの伴走者たち』P241より、日本テレビの平成6年(1994年)当時のアナウンス部メモを参照。〕。定年まで務めたアナウンサーは、日本テレビでは小林完吾についで2番目であった〔(これに、小川光明が次ぐ)。その後はフリーアナウンサー〔、日本テレビアナウンスカレッジ講師〔を務めている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「本多当一郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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