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本多 忠永(ほんだ ただなが)は、伊勢神戸藩の第2代藩主。神戸藩本多家3代。 == 生涯 == 享保9年(1724年)5月17日、初代藩主本多忠統の五男として生まれる。延享4年(1747年)に嫡子の兄忠篤が早世したために世子となる。寛延3年(1750年)11月19日の父の隠居により、家督を継いだ。 寛延4年(1751年)4月、一橋門番となる。宝暦2年(1752年)6月、馬場先門番に任じられる。9月には日光祭礼奉行となる。宝暦3年(1753年)2月に大坂加番に任じられ、宝暦6年(1756年)6月には半蔵門番、宝暦9年(1759年)9月には田安門番などを歴任した。宝暦10年(1760年)10月13日、家督を養子の忠興(兄・忠篤の長男)に譲って隠居した。 天明4年(1784年)、剃髪して随翁と号した。その後は藩政に関わらず、小栗旨源に和歌・俳句を学び、茶道にも関心を示して出雲松江藩主松平治郷と交遊したという。 文化14年(1817年)5月17日に死去した。享年94。当時としては驚異的な94歳という長寿であったこともあり、家臣や領民に慕われることとなり、死後の文政元年(1818年)には儒学者の長野潜によって「思徳の碑」が建設されることとなった。著書に「俳諧ふたわらひ」がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「本多忠永」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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