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本多忠良 : ミニ英和和英辞書
本多忠良[ほんだただよし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 
: [た]
  1. (n,pref) multi- 
忠良 : [ちゅうりょう]
 (adj-na,n) loyalty
: [りょう]
 【名詞】 1. good 

本多忠良 : ウィキペディア日本語版
本多忠良[ほんだただよし]

本多 忠良(ほんだ ただなが)は、江戸時代中期の大名。幕府では側用人老中を務めた。越後村上藩第2代藩主、三河刈谷藩主、下総古河藩初代藩主。忠勝系本多家宗家8代。
== 生涯 ==
本多平八郎家の分家筋にあたる播磨山崎藩主・本多忠英の長男として生まれる。宝永7年(1710年)、15万石の本家当主・本多忠孝が7歳で無嗣のまま死去し、本来であれば断絶となるところを、とくに幕命により、分家筋の忠良に継がせることとなった〔早川『シリーズ藩物語 古河藩』P108〕。ただし、藩主死去後の急養子の形であるため、忠良相続後まもなく、10万石減封の上で越後村上から三河刈谷に転封となっている〔。
幕府では宝永7年(1710年)に第6代将軍家宣より側用人に抜擢され、翌年には侍従に上げられて席次は老中に次ぐと定められた。正徳2年(1712年)に同じ5万石で三河刈谷から下総古河に移封となる〔。第7代将軍家継が死去し、享保元年(1716年)に紀州藩から徳川吉宗が第8代将軍に就任すると側用人を解職されて帝鑑間席に戻ったが、忠良は平八郎家の嫡流であるとして、5万石ながら逆に10万石の格式を許された〔。
享保19年(1734年)には西の丸老中、翌年には本丸老中となり〔再び国政の表舞台に復帰した。延享3年(1746年)に老中職を退き、宝暦元年(1751年)に古河藩主在任のまま死去した〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「本多忠良」の詳細全文を読む




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