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本多政昌 : ミニ英和和英辞書
本多政昌[ほんだ まさあきら]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 
: [た]
  1. (n,pref) multi- 
: [せい, まつりごと]
 【名詞】 1. rule 2. government 

本多政昌 : ウィキペディア日本語版
本多政昌[ほんだ まさあきら]
本多 政昌 (ほんだ まさあきら、元禄2年4月17日1689年6月4日) - 延享5年3月18日1748年4月15日)) は、加賀藩の執政、加賀八家本多家第5代当主。
父は加賀藩家老本多政敏。正室は本多図書政冬の娘。子は長善連室。養子は本多政行。官位は従五位下安房守。通称は嘉藤次。
== 生涯 ==
元禄2年(1689年)加賀藩家老本多政敏の四男として生まれる。享保8年(1723年)兄政敏の死去により家督と5万石の知行を相続する。人持組頭、年寄を務めた。
享保8年(1723年)12月従五位下安房守に叙任。享保11年(1726年)公儀御用(宗門方御触)。享保15年(1730年金沢城代となる。
寛保2年(1742年青地礼幹より、藩主前田吉徳側近大槻朝元(伝蔵)の非行を弾劾する書状を届けられる。礼幹は、本多政重の長男政次の曾孫で、当時前田直躬と共に大槻排斥を強く訴えていた一人である。年寄である政昌の力により大槻排除を期待してのことであったが、大槻が失脚するのは礼幹の没後、藩主吉徳の死去を待たねばならなかった。
延享元年(1744年)藩主吉徳より、不和であった分家本多頼母政恒との和解を命じられる。延享3年(1746年)加賀騒動の当事者大槻伝蔵を屋敷に召還し蟄居を申し渡す。朝元は政昌の組であった。
延享5年(1748年)3月18日没。享年60。家督は一門本多政冬の子政行が相続した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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