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本多 忠英(ほんだ ただひで)は、大和郡山新田藩主、のち播磨山崎藩初代藩主。政信系本多家2代。大和郡山藩主本多政勝の三男。初名は政貞。 == 生涯 == 寛文2年(1662年)、嗣子がなかった本多政信の養子となって家督を継ぐ。延宝7年(1679年)、大和郡山新田藩から新たに播磨山崎藩1万石に移された。このときに名も政貞から忠英に改名する。天和2年(1682年)からは宗家で姫路藩主となった同族の本多忠国の補佐に務め、宝永元年(1704年)に忠国が死去して本多忠孝が跡を継ぐと、姫路本多家は忠孝が幼少であるということから越後村上藩に移された。そして、忠孝が宝永6年(1709年)に早世し、嗣子がなかったため、忠英の長男・忠良がその養嗣子となって村上藩主となった。 藩政においては質素倹約に努めた。さらに忠英自身が茶、絵、華道に長けた教養人であったことから、狩野常信や片岡醇徳らを招聘して文化的発展に尽力した。しかし宝永元年(1704年)に城下町の大半が焼失して窮民が一気に増大し、それによって藩政は不安定化した。 享保3年(1718年)6月24日、72歳で死去した。次男の忠方が跡を継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「本多忠英」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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