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本多 正珍(ほんだ まさよし、宝永7年7月8日(1710年8月2日) - 天明6年8月27日(1786年9月19日))は、江戸時代中期の大名。駿河田中藩第2代藩主、江戸幕府の老中。正重系本多家7代。 == 生涯== 田中藩初代藩主本多正矩の三男。母は松野助義の娘。正室は松平信祝の娘。子に本多正堅(長男)、本多正供(次男)、本多正敬(四男)、娘(戸田忠寛正室)、娘(大久保忠卿正室)、娘(分部光実正室)。幼名は三弥。官位は従四位下、侍従、紀伊守、伯耆守。 宝永7年(1710年)7月8日生まれ。享保20年(1735年)家督を相続し、元文2年(1737年)から奏者番、寺社奉行を務める。延享3年(1746年)から老中を務めるが、在任中発生した宝暦の郡上一揆に関し、不正の科ありとして、老中を免職・逼塞を命じられた。正珍が安永2年(1773年)5月23日に隠居した後、家督は次男の正供が継いだ。天明6年(1786年)8月27日に死去した。享年77。法号は克享院殿受明蓮生寺。墓所は静岡県藤枝市の蓮生寺。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「本多正珍」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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