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本多 重次(ほんだ しげつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川氏の家臣。本多重正の子。子は越前丸岡藩主・本多成重。通称は作左衛門(さくざえもん)。 == 生涯 == 享禄2年(1529年)、本多重正の子として誕生。通称は作左衛門で、剛邁で怒りやすいので「鬼作左(おにさくざ)」と綽名された〔中村孝也『徳川家康公伝』(東照宮社務所、1965年)143-144頁〕。 三河国の戦国大名・徳川家康に仕え、天野康景、高力清長と共に三河三奉行の一人として、行政面に力を発揮した。奉行に登用された時、非道な事はせず、依怙贔屓をせず、明白に沙汰を遂げ、物事の埒が早く明くので、皆が驚いた〔中村孝也『徳川家康公伝』(東照宮社務所、1965年)144頁〕。 また武将としても活躍し、永禄元年(1558年)、家康の寺部城初陣に従い功を挙げ、一向宗乱の時には、その宗門であったのを改めて誓書をたてまつり、所々に転戦している〔中村孝也『徳川家康公伝』(東照宮社務所、1965年)143頁〕。また、小田原征伐においては、自ら勧誘した向井正綱と共に梶原景宗率いる北条水軍を迎撃してこれを打ち破っている。 ところが、小田原征伐後に家康が北条氏旧領の関東へ移封後、豊臣秀吉の命を受けた家康により、上総古井戸(小糸とも。現在の千葉県君津市)3,000石にて蟄居を命じられた。その後、蟄居先が下総国相馬郡井野(現在の茨城県取手市井野)に変更される。 文禄5年(1596年)7月16日、68歳で死去。墓所は茨城県取手市にある茨城県指定史跡「本多重次墳墓」。福井県坂井市丸岡町の本光院にも墓がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「本多重次」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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