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本多静六 : ミニ英和和英辞書
本多静六[ほんだ せいろく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 
: [た]
  1. (n,pref) multi- 
: [ろく]
  1. (num) six 

本多静六 : ウィキペディア日本語版
本多静六[ほんだ せいろく]

本多 静六(ほんだ せいろく、慶応2年7月2日1866年8月11日) - 昭和27(1952年1月29日)は、日本林学博士造園家。日本の「公園の父」といわれる〔「公園の父」足跡たどる 久喜に本多静六記念館 読売新聞埼玉版 2013年4月21日朝刊32ページ〕。旧名、折原静六。
== 経歴 ==
武蔵国埼玉郡河原井村(現埼玉県久喜市菖蒲町河原井)に折原家の第6子として生まれた。東京山林学校に入学するまでの間河原井村で少年時代を過ごした。当時の河原井村は、戸数25軒ほどの小さな村だったが、中でも折原家は代々名主役を務める裕福な農家だった〔静かなブーム、LOHASな大金持ち 伝説の倹約家、本多静六の「もったいない」人生 週刊朝日 2005年11月18日号 36ページ〕。ところが9歳の時に父親が急死すると同時に多額の借金が家に舞い込み、今までとは違った苦しい生活を強いられるようになった。
しかしそれでも向学心は衰えることなく、14歳の年志を立てて島村泰(元岩槻藩塾長)のもとに書生として住み込み農閑期の半年は上京し勉学に努め、農繁期の半年は帰省して農作業や米つきに励むという変則的な生活を三年間繰り返した。
明治17年(1884年)3月、東京山林学校(後に東京農林学校から帝国大学農科大学)に入学した。卒業時には首席となり〔銀時計が授けられた。卒業1年前の明治22年(1889年)5月、元彰義隊隊長、本多敏三郎の娘・詮子と結婚し婿養子となった。
東京農林学校(現在の東京大学農学部)を卒業とともに、林学を学ぶためドイツへ留学した。ドイツでは、2つの学校に学び、最初はドレスデン郊外にあるターラントの山林学校(現在はドレスデン工科大学林学部)で半年、この後ミュンヘン大学へ転校し、更に1年半学問を極めた。ドクトル学位を取得、欧米を視察した後帰国し、母校の助教授教授になった。
日比谷公園を皮切りに、北海道大沼公園〔や福島県鶴ヶ城公園埼玉県羊山公園東京都明治神宮〔、長野県臥竜公園石川県卯辰山公園福岡県大濠公園〔ほか、設計・改良に携わった公園多数。東京山林学校卒業後に留学したドイツを始め、海外に十数回視察に赴き、明治期以降の日本の大規模公園の開設・修正に携わった。
東京駅丸の内口駅前広場の設計も行っている〔読売新聞 2009年2月24日埼玉南版 朝刊35ページ〕ほか、行幸通りも本多が担当し、その後歴代の弟子達が改良設計に携わる。
また、関東大震災からの復興の原案を後藤新平内務大臣より依頼されて、二昼夜不眠不休で作成した〔[昭和時代]戦前・戦中期(3)首都一新 変わる景観(連載)読売新聞 2013年3月2日朝刊12ページ〕。
また、昭和3年(1928年)当時の比企郡菅谷村(現、埼玉県比企郡嵐山町)にある、現嵐山渓谷周辺を訪れた際、風景が京都の嵐山(あらしやま)によく似ていることから、武蔵嵐山(むさしらんざん)と命名したことにより、のちに駅名(東武東上線、菅谷駅・現武蔵嵐山駅)や自治体名(比企郡菅谷村)が町制施行時に嵐山町(らんざんまち)と改称している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「本多静六」の詳細全文を読む




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