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本宮 ひろ志(もとみや ひろし、本名: 本宮 博(読み同じ)、1947年6月25日 - )は、日本の漫画家。千葉県千葉市出身。葛飾区立小松中学校卒業。埼玉県立浦和高等学校(通信制)中退。代表作は、『男一匹ガキ大将』、『俺の空』、『サラリーマン金太郎』など多数。 妻は、漫画家のもりたじゅん。「菅直人元首相の復活に期待する会」の発起人の一人。 == 経歴 == 中学校卒業後はパイロットを目指して航空自衛隊に自衛隊生徒として入隊するも、17歳で退職。その後漫画家を目指す。1965年、貸本漫画「きみとぼく」11号(日の丸文庫)掲載の『遠い島影』でデビュー(本宮博 名義)。 1968年に創刊された「週刊少年ジャンプ」において、同年に連載を開始した『男一匹ガキ大将』はアニメ化・映画化され、同時期の『ハレンチ学園』に次ぐ人気作品となり、1970年代の「ジャンプ」の躍進に大きく貢献した。担当編集者の西村繁男は、「打倒ハレンチ学園」を掲げて本宮を鼓舞した。 この時、『ハレンチ学園』の作者の永井豪が、週刊少年マガジンにも連載を持つ事となった。永井への対抗心から本宮がこれに続く事を危惧した当時の編集長の長野規は、本宮と専属契約を結ぶ。その後も続く事になる少年ジャンプの専属契約システムの第1号であった。 『男一匹ガキ大将』の終了後、『武蔵』の連載を開始する。これは本宮にとって思い入れのある作品であったが、『男一匹ガキ大将』の人気には及ばす打ち切りとなる。結果、本宮本人の意思に反して『男一匹ガキ大将』の連載が再開される事となる。 この時期、専属契約の最中にも関わらず、週刊少年マガジンへの連載を約束し、問題となる、週刊少年ジャンプ編集部は必死の慰留を続け、編集長の長野は本宮に土下座してまでして、思いとどまらせた。 その後は、本宮本人が述べる所では「絵が下手」との事で、『男一匹ガキ大将』に比肩するようなヒット作には恵まれず苦労する。例えば『大ぼら一代』は、主人公の一介の不良少年が、日本を動かす立場になるという意味で、『男一匹ガキ大将』の2番煎じと評された。そんな中、1973年から「週刊プレイボーイ」で『春雷』の連載を開始し、青年誌に活動の場を拡げる。また専属契約の切れ目において、週刊少年マガジンにおいて『群竜伝』の連載を行い、かつての「借りを返した」ものの、これもヒット作とはならず、本宮にとっても週刊少年マガジンは肌に合わなかった。 再び少年漫画でのヒットとなったのは、「週刊少年ジャンプ」の読み切り『硬派山崎銀次郎』だった。同業の妻もりたじゅんの発案による本作を、本宮が発展させ、「月刊少年ジャンプ」で『硬派銀次郎』として連載し人気作にした〔『同期生 「りぼん」が生んだ漫画家三人が語る45年』「第2章もりたじゅん」P136-140 集英社新書 2012年〕。また青年漫画でも、1975年「週刊プレイボーイ」で『俺の空』をヒットさせる。 「週刊少年ジャンプ」では1978年から『さわやか万太郎』の連載を開始する。これはかつての担当編集者の西村繁男が編集長に就任した事を祝してのものだった。大きなヒットにはならなかったがそれなりにヒットし、西村はこの当時において最も頼りになる漫画家だったと述懐している。 1980年4月には突如「休筆宣言」を行い物議をかもすが、1981年から自伝的作品『春爛漫』を発表して再び執筆活動に入った。1982年、「参議院選挙に全国区から立候補する」と宣言、連載開始した『やぶれかぶれ』において選挙の様子をリアルタイムで執筆したが、この時から参議院選挙が比例代表制となった為、立候補を断念する。作品の人気は振るわなかったものの、菅直人とその秘書が選挙の指南役として登場し、当時「闇将軍」として政界に大きな影響力を持っていた田中角栄元首相との対談を実現させて話題となる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「本宮ひろ志」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Moto Kikaku 」があります。 スポンサード リンク
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