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本山 親茂(もとやま ちかしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長宗我部氏の家臣。元の名を貞茂(さだしげ)といい、長宗我部氏へ臣従後に親茂と改名。 == 生涯 == 土佐国中部を支配した土佐七雄に数えられる本山氏の当主。父本山茂辰は長宗我部氏と長年争っており、土佐国西部の大名・一条氏による和睦の取り成しで長宗我部国親の娘を娶り、親茂は嫡男として誕生した。 それでも、長宗我部氏との争いは収まらず、永禄3年(1560年)5月の長浜の戦いでの敗北後は、本山氏は押される一方であった。親茂は永禄5年(1562年)9月16日から9月18日までの長宗我部元親との鴨部の宮前の決戦で奮戦して勝利し、敵方の将兵511人を討ち取る〔山本大『長宗我部元親』35頁。最も本山方も郎党85人、兵士235名が戦死しており、痛み分けともいえる。〕活躍をみせた。しかし、長宗我部氏の攻勢は続き、朝倉城や居城の本山城を失ってからは、瓜生野原(瓜生野城)にて篭城し何度も寄せ手を撃退するが〔親茂は父の茂辰に勝る勇将だったと伝わる。山本大『長宗我部元親』34頁。〕、永禄7年(1564年)には父・茂辰が病死〔茂辰は降伏して「本山大夫法師」と称して、天正年間末期の段階で生存していたとする説もある。また、この説では茂辰の降伏後も妻(元親の姉)や子・親茂はこれに従わずに抵抗を続けたとする。朝倉「戦国末期の国人本山茂辰とその家族たち」、2014年、P223-224。〕し、元亀2年(1571年)になって遂に降伏した〔永禄11年(1568年)冬に降伏したとする説もあるが、『元親記』には永禄3年から12年間続いたとあり、本山氏の当主としての親茂発給文書も元亀2年正月まで存続していることからこの年が親茂降伏の年と考えられる。朝倉、2014年、P224・231。〕。 その後、元親に気に入られて一字を与えられ親茂と名乗り、一門衆に加えられ、元親の嫡男・長宗我部信親の家老として仕える。その後、長宗我部氏の伊予進出で活躍している。四国征伐により長宗我部氏が豊臣氏に臣従すると、天正14年(1586年)、豊臣秀吉の九州征伐に元親・信親父子は参陣し、親茂もその配下として同行した。同年12月の戸次川の戦いで軍監・仙石秀久の作戦失敗により、島津勢に囲まれた親茂は主君・信親と共に奮戦するも両者共に討ち取られた。享年42〔本山氏の家督は吉良親貞の養子になっていた弟の吉良弥五良貞俵が本山氏に戻り、本山内記茂慶と名乗って家督を継いだという。朝倉、2014年、P226-228。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「本山親茂」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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