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本山辰吉 : ミニ英和和英辞書
本山辰吉[ほんざん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 
本山 : [ほんざん]
 【名詞】 1. head temple 2. this temple 
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [たつ]
 【名詞】 1. fifth sign of Chinese zodiac (The Dragon, 7a.m.-9a.m., east-southeast, March) 

本山辰吉 ( リダイレクト:本山白雲 ) : ウィキペディア日本語版
本山白雲[もとやま はくうん]
本山 白雲(もとやま はくうん、明治4年9月1日1871年10月14日) - 昭和27年(1952年2月18日)は、日本銅像作家。高知市桂浜坂本龍馬の銅像の作者。本名は本山辰吉、「白雲」は雅号。彫塑が巧みで土佐のミケランジェロと呼ばれた。
== 来歴 ==

明治4年9月1日(1871年10月14日)、土佐藩家老宿毛7,000石の領主伊賀家安東家)に仕える武士本山茂武(省吾)の二男として土佐国幡多郡宿毛村(現 高知県宿毛市)土居下の侍屋敷に生まれる。本山家は、かつては長宗我部氏とも争った家柄であったが、明治維新ののち家禄を奉還してからは、生活は極めて貧困であった。
辰吉は幼少時、家の近くの城山墓地の地蔵堂で遊び、地蔵堂の中にある多くの地蔵の表情がそれぞれ違うことに気づき、立体造形に興味を持つ。美術(彫塑)の勉学を志すが、明治18年(1885年)に宿毛小学校高等科を卒業後、逼迫した家計を助ける為に、郷里宿毛で小学校の代用教員として奉職した。しかし美術への思いを断ちがたく、明治21年(1888年)6月24日夜半、意を決して、自ら蓄財10円を懐中に家出して大阪へ向かう。
大阪で彫塑の師たるべき人を探したが、成果の無いまま空しく1ヶ月が過ぎて所持金も3円となり、自失していた折に、母の知人に会い、かつての旧領主・伊賀家を頼って上京することを薦められる。そこで、路銀の乏しいので東海道を歩いて上京し、かつての旧領主である伊賀家を訪ねた。伊賀家12代目当主の伊賀氏成(陽太郎)の推薦により、当時、東京美術学校の主任教授であった彫刻家高村光雲の門弟となる。光雲は、辰吉の才能を知るや美術学校で、基礎から彫塑を学ぶことを薦めた。
明治23年(1890年)7月、宿毛出身の岩村通俊の援助を得て、東京美術学校(現 東京芸術大学)彫刻本科に入学。在学中、師の高村光雲が製作を依頼された『大楠公の銅像』や『西郷南州翁の銅像』の木型製作の助手を務める。
明治27年(1894年)、東京美術学校を卒業の時に前代未聞の実技100点の成績を修める。その才能を惜しまれ、そのまま同校の講師として奉職する。この頃、高村光雲から「雲」の一字を貰い白雲と号した。
明治28年(1895年)、岩村通俊が「本邦古今偉人傑士」の銅像建立を計画し、白雲は招聘されてその銅像製作の主任となるべく、在職早々にして東京美術学校を退官する。
明治32年(1899年)、板垣退助等の主唱によって故後藤象二郎の銅像建立の懸賞展があり、1丈2尺の立像彫刻の模型を作製し入選する。のち後藤象二郎の銅像は東京品川芝公園に建立(のち金属供出され消滅)され、当時の人はその技術の精巧さに驚き、以来、辰吉の才妙なる技術は、たちまちにして世の好評を博した。
明治36年(1903年)、『品川弥二郎の銅像』の原型を作製。明治38年(1905年)、海軍省で、西郷従道川村純義の銅像建設の建議があり、数十人の彫刻家に技を競わせたところ、白雲が一位となり銅像の原型を作製した時も、その技術が絶賛された。維新の元勲の銅像で彼の手にかからなかった物は殆どないと言われ、その作品数は建立された銅像だけでも40体以上、その他の作品は全国各地に300体以上に及ぶという。
大正期の邸宅は、東京小石川区大原町にあった。昭和19年(1944年)、戦時に金属供出せられてスクラップにされた明治の元勲たちの原型を、自らの手で全て叩き割って、防空壕の傍らに穴を掘って埋めたという。昭和27年(1952年2月18日東京世田谷で死去。享年82。
白雲によって悲運であったのは当時「其精巧なる技術は驚く可きものあり。今や斯界の大家にして当代稀に見る芸術家たり」と呼ばれたにも関わらず、その後の大東亜戦争時に殆どの銅像が金属供出せられ、現物が僅かしか残っていないことである。高知の桂浜で、悠然と太平洋の彼方を望んで立つ坂本龍馬の巨大(総高約15m)な銅像は、本山白雲の貴重な代表作である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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