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本山 雅志(もとやま まさし、1979年6月20日 - )は、福岡県北九州市若松区出身のサッカー選手。ギラヴァンツ北九州所属。ポジションはミッドフィールダー、フォワード〔。元日本代表選手。 == 来歴 == 1979年6月20日、北九州市若松区で鮮魚店を営む一家に生まれる。地元の二島小学校に入学し、1年生からサッカーをはじめた〔WEBサッカーマガジン 2001年7月26日のインタビューより〕。二島中学校を経て1995年に福岡県の強豪校、東福岡高校に進学した。高校では1年生からボランチでレギュラーになり、3年時の1997年に、攻撃的MFとしてインターハイ、全日本ユース選手権、高校選手権で優勝し、高校サッカー史上初の3冠を達成した。なお、高校選手権の決勝は、後に鹿島のチームメイトになる中田浩二がいる帝京高校との対戦であった。 1998年に鹿島に入団(同期は小笠原満男、中田浩二、曽ヶ端準、山口武士、中村祥朗)。その年の天皇杯で4試合に出場し、3得点を挙げた。同年のAFCユース選手権ではチームの準優勝に貢献するとともに、自身も高原と並び大会得点王を獲得した。続く1999年には、ナイジェリアで開催されたU-20世界選手権(ワールドユース)の日本代表の一員として準優勝に貢献し、小野伸二と共にベストイレブンに選ばれた。 また、この年から鹿島でもリーグ戦にコンスタントに出場するようになり、翌2000年にはシドニーオリンピックに出場するとともに、A代表に選出され、6月18日のボリビア戦で代表デビューを果たした。さらには2000年、2001年の鹿島のリーグ連覇にスーパーサブとして貢献した〔。 2002年からは、前年限りで退団したビスマルクの背番号10を継承し、名実ともに鹿島の中心選手となった。しかし代表では主戦場としていた左サイドはチーム最大の人材過多のポジションであり 、特にスーパーサブのドリブラーとしての役割まで重なり2001年になって帰化した三都主が大ブレイク中であった事もあり、日本と韓国で開催された2002 FIFAワールドカップの代表には選出されなかった。 ジーコが代表を率いるようになった2003年からは代表に招集される機会が多くなり、FWもしくはトップ下としてAFCアジアカップ2004などに参加したものの、ある程度の出場機会が与えられたにも関わらず最後まで無得点だった事でアピールできず、ドイツで開催された2006 FIFAワールドカップの代表からは外れた。 2007年には6月16日のサンフレッチェ広島戦でリーグ戦通算200試合出場を達成し、同試合で鹿島ホーム通算500得点目の記念ゴールを決めた。またプロ10年目にしてはじめてリーグ戦全試合出場を果たし、6年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献した。 2008年から移籍した柳沢敦から鹿島の選手会長を引き継ぐ。シーズン中盤の6月に先天性水腎症を患っていることが判明したが、リーグ戦終了までごく近い関係者にしかその事実を明かさず〔鹿島本山、水腎症乗り越えV獲った/J1 日刊スポーツ 2008年12月7日〕、国際試合のAFCチャンピオンズリーグ(ACL)を含めてほぼフルに出場、リーグ連覇を果たした。12月25日水腎症の手術を受けた。 2014年7月27日のJ1第17節・浦和戦で、クラブ最長の17シーズン目で通算500試合を達成した。 2015年シーズンでは僅か6試合計139分間の出場にとどまったため、「まだピッチに立ち続けたい。プロ選手として、あるべき姿を追い求めたい」との願いから、11月26日、18シーズン在籍した鹿島を退団することが発表され〔本山選手の退団について 鹿島アントラーズ 2015年11月26日〕、12月26日、出身地のJ2ギラヴァンツ北九州に加入した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「本山雅志」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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