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本庄 国房(ほんじょう くにふさ、生没年不詳)は、鎌倉時代後期の武蔵国児玉郡本庄(現在の埼玉県本庄市)の武将。児玉党系本庄氏(時家系本庄氏)の4代目で、児玉党の本宗家と考えられる(仮定として、宗家を継いでいたとすれば、児玉党本宗家11代目)。通称は左衛門太郎。系図には、父は本庄太左衛門泰房とある。 本庄左衛門太郎国房(文献によっては太郎国房)は、系図上では、児玉党の本宗家(嫡流)である庄氏から初めて本庄氏を名乗ったと考えられる本庄四郎左衛門尉時家の曾孫とされる。生まれは、北堀地内の本田館か。後述の五十子の所領問題からして、13世紀中頃から末の生まれと考えられる。 == 地頭職の喪失と五十子の所領問題 == 14世紀初めの正和3年(1314年)7月23日に、由利頼久(通称八郎)との間に本庄内の生子(いらこ)屋敷と立野林の畠地について争いが生じ、鎌倉幕府の裁定により、頼久の知行が認められたとされる(根津美術館所蔵の古文書より)。しかし、時家の末裔と称される本庄宮内少輔信明の所領中には五十子(いらこ)があり、国房以降、何らか(武力と言った実力行使を含め)のきっかけで本庄氏が治めたものと見られる(五十子の戦い以降も本庄氏が自分の領地としている)。 根津美術館所蔵の文書の内容によると、これ以前にも、正応4年(1291年)10月2日に頼久と問題になり、先月26日に示談が成立したが、国房の方になお問題があり、曾祖父である時家より代々相伝してきた筑前国小中庄の地頭職を頼久に与える事となったとあり、4代かけて地頭として治めてきた九州の所領(地頭職)を本庄氏が失ったとされる(資料的には、時家がどの様な功績から小中庄の地頭職を与えられたのかは不明)。 こうした事からも、国房と頼久がたびたび言い争いをしていた事がうかがえ、また、この古文書の存在からも、庄氏が13世紀頃に本庄氏を称していた事は確定的な事である。また、古文書の内容が事実であるのなら、地理的に考えて、糟屋郡小中庄(現篠栗町)にいた時家系本庄氏(の2代目か3代目か)は元寇を経験した可能性も生じてくる。しかし、そうした伝承は今のところ確認できない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「本庄国房」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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