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本庄繁長の乱(ほんじょうしげながのらん)は、本庄城主本庄繁長と上杉謙信(当時は上杉輝虎、以下本項では「謙信」で統一する)との間で永禄11年(1568年)4月から翌(1569年)3月にかけての越後国本庄城を中心とした戦い。 == 発端 == 永禄4年(1561年)、謙信(政虎)と甲斐の武田信玄が戦った第四次川中島の戦いの軍議において、上杉家臣の長尾藤景は謙信の戦術を批判、これをきっかけに謙信と藤景は対立するようになっていた。その後永禄11年(1568年)、謙信(輝虎)の命を受けた本庄繁長は祝宴の名目で藤景・景治兄弟を誘い出し、両者を誅殺。繁長自身も手傷を負いながら計画を遂行したものの、謙信からの恩賞はなかった。 これに不満を持っていた繁長に対し、謙信の上洛を阻もうとする武田信玄から誘いがあったことで繁長もその計略に乗り、謀反を計画するようになる。謙信は信玄に通じ、謀反を起こした椎名康胤の居城松倉城を攻撃に越中に進撃。これを機に、繁長は、謙信に不満を抱く国人衆を集めようとし、各国人衆に密書を送る。密書を送った主な人物は次の通り。 * 鮎川盛長 - 一族 * 色部勝長 - 揚北衆 * 黒川実氏 - 揚北衆、黒川清実の近親者? * 中条景資 - 揚北衆、鳥坂城主 しかし景資はそのまま密書を謙信に見せ、繁長の謀反は発覚した。驚いた謙信は、即座に陣を引き払って春日山城(新潟県上越市)へ帰り、繁長の居城である本庄城(新潟県村上市)攻略の準備を進めた。謙信はただちに手を打った。本庄一族の鮎川盛長が忠誠を誓うと、中条はもちろんのこと色部、黒川などの揚北衆は次々と謙信方に付いた。こうして、繁長は、信玄の援軍が来るまで籠城を余儀なくされた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「本庄繁長の乱」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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