|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 本 : [ほん, もと] 1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation ・ 田 : [た] 【名詞】 1. rice field ・ 優 : [ゆう] 1. (adj-na,n) actor 2. superiority 3. gentleness
本田 優(ほんだ まさる、1959年1月4日 - )は日本中央競馬会 (JRA) 栗東トレーニングセンター所属の調教師。 == 来歴 == 1980年に騎手免許を取得し、星川薫厩舎よりデビュー。元騎手の上籠勝仁は弟弟子。初騎乗は同年3月1日の阪神競馬第1競走で、ロビンソンシチーに騎乗し2着。同年3月30日の阪神競馬第3競走でカンザンスピードに騎乗し初勝利。 重賞初勝利は1981年春の京都記念(1983年までは年2回施行の競走であった)で初騎乗馬のロビンソンシチーにて挙げる。そして1986年にはゴールドシチーで阪神3歳ステークスに勝利。これがGI初勝利となった。 1990年代に入ると勝利数が増え、勝率・連対率ともに着実に結果を残したが、大きなタイトルには縁がなかった。しかし、2000年の阪神3歳牝馬ステークスでテイエムオーシャンに騎乗し、実に14年ぶりのGI制覇を果たした。翌年も同馬とのコンビで桜花賞、秋華賞を勝った。 その後はテイエムオーシャンを筆頭に、西浦勝一調教師の管理馬とのコンビが目立つようになり、勝利数もさらに増えた。マイソールサウンドなどで重賞勝利も重ね、ベテランならではの渋い活躍ぶりを見せていた。騎乗フォームは柔らかく、芝レース、とくに牝馬騎乗での活躍が目立った。 その反面、強気過ぎて人気を裏切ったりすることもあり、テイエムオーシャンの優駿牝馬(オークス)で横山典弘に出し抜けされ、3着に敗れたときには「騎手が下手だったと書いてくれて結構です。」と発言し、物議を醸した〔一般的に騎手はこのような自己のミスを責める直接的な発言をすることはしない。〕。 2005年2回函館競馬4日目第6競走においてイアラユーラシアに騎乗し、中央競馬通算700勝を達成した。 2006年には優駿牝馬で上がり馬のカワカミプリンセスに騎乗し、最年長で優勝を果たすと、同年の秋華賞もカワカミプリンセスで制した。エリザベス女王杯でも1位に入線し、ファインモーション以来の無敗の制覇かと思われたが、審議の結果直線でヤマニンシュクルの進路を妨害したとして12着降着(16頭中)となった。ここでも「全部俺の責任」と発言した。また、審議を担当した裁決委員には「俺からは制裁金をいくら取っても構わないが、馬の降着だけは勘弁してくれ」と嘆願していたという。なお、GIレース1着降着の事例は1991年の天皇賞(秋)のメジロマックイーン以来だが、本田はこのとき、直接の被害馬とされた18着入線のプレジデントシチーに跨っており、レース後に岡部幸雄が「お前、よく落ちなかったな」と声をかけたほど、落馬寸前なまでに体勢を崩していた。 2007年2月、調教師試験に合格し、調教師免許を取得した。2月25日の阪急杯のニシノデュー(6着)の騎乗を最後に2月28日付で騎手を引退し、調教師へ転身した。 同年4月22日におこなわれたジョッキーマスターズに参戦し2着。6月21日付で厩舎を開業(当面は10馬房)した。初出走は同年6月30日阪神競馬第1競走のジョバイロで6着、初勝利は同年7月28日小倉競馬第3競走のバトルブレーヴでのべ10頭目であった。さらに同馬は翌2008年の小倉サマージャンプを制し、調教師としてJRA重賞初勝利を挙げた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「本田優」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|