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本能寺(ほんのうじ)は、京都府京都市中京区にある、法華宗本門流の大本山。明智光秀が謀反を起こし織田信長を討った「本能寺の変」で知られる。塔頭が7院ある(恵昇院、蓮承院、定性院、高俊院、本行院、源妙院、龍雲院)。 == 歴史 == 本能寺は、当初は「本応寺」という寺号で、1415年(応永22年)京都油小路高辻と五条坊門の間に、日隆によって創建されたものである〔『日本名刹大事典』、p.809〕。寺地は北を五条坊門小路(現・仏光寺通)、南を高辻小路、東を西洞院大路、西を油小路に囲まれた地であった(現・京都市下京区)〔「本能寺の変遷」『リーフレット京都』211、2006〕。日隆は妙本寺(現・妙顕寺)4世・日霽に師事するが、法華経の解釈をめぐり本迹勝劣を主張した日隆は、妙本寺5世・月明と対立。1418年(応永25年)本応寺は月明により破却され、日隆は河内三井(本厳寺)・尼崎(本興寺)へ移った〔『日本歴史地名大系 京都市の地名』、p.738 - 739〕〔『日本名刹大事典』、p.809〕。1429年(永享元年)帰洛して大檀那・小袖屋宗句(山本宗句)の援助により、千本極楽付近の内野(大内裏跡)に本応寺を再建。1433年(永享5年)檀那・如意王丸なる人物から六角大宮の西、四条坊門の北に土地の寄進を受け再建し、寺号を「本能寺」と改めた〔『日本名刹大事典』、p.809〕。その後、本能寺は法華経弘通の霊場として栄え、中世後期には洛中法華21ヶ寺の一つとなり、足利氏の保護を受けた。寺域は六角小路以南、四条坊門小路(現・蛸薬師通)以北、櫛笥小路(現・神泉苑通)以東、大宮大路以西で方1町の敷地を有し、また多くの子院も有していた〔「本能寺の変遷」『リーフレット京都』211、2006〕。応仁の乱後、京都復興に尽力した町衆は、大半が法華宗門徒で、法華宗の信仰が浸透し「題目の巷」と呼ばれ、本能寺は繁栄を極めた。1536年(天文5年)天文法華の乱にて延暦寺・僧兵により、堂宇はことごとく焼失し、一時堺の顕本寺に避難した〔『日本歴史地名大系 京都市の地名』、p.738 - 739〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「本能寺」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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